アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
 奏は、何も言わなかった。
 ただ、また鍵盤に向かって、もう一度弾き始める。
 さっきより、少しだけ――自由な音がした。

 ――この、音。

 紬希は、その音を聴きながら思惟に耽る。彼は認めてもらいたかったのかもしれない。
 完璧な演奏ではなく、それ以前の、道の途中の、不完全な音を。

 ――わたしでよければ、いくらでも聴きますよ。

 心の中で、そっとそう思いながら。
 紬希は、また本を開く。
 同じ部屋に、二人分の時間が流れている。

 ――だけど。……いつから、こんな風に自然になったんだろう?

 紬希は自分の頬が少し熱いことに気づいて、慌てて顔を背ける。
 けっきょく海外遠征では最後まで寝室を別にしていたし、戻ってきてからもそれは変わらない。
 契約だけのお飾り妻なのに、こんな風に穏やかな日々を過ごしていると……なんだかほんとうの夫婦みたいだ。
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