記憶の中のあなたと、記憶喪失のあなた

11 だからこそ唇を

 大トリを飾る選抜リレーが終了し、勝負にも決着がついた。優勝は紅組。
 残念な結果におわったが、わたしたちの顔は晴れやかだった。
 閉会式を済ませれば、片づけがはじまる。設営には時間がかかったというのに、きれいにするのはあっという間で、なんだかわたしは寂しさも覚えた。

 今日ばかりは完全下校も形無しだ。
 多くの生徒たちが余韻にひたっていて、先生も見逃してくれている。
 大活躍だった海斗(かいと)くんは、男女を問わずクラス中からもみくちゃにされていた。

「やめてよ、みんなのおかげだって」

 今はまだ話しかけるときじゃない。
 そう思っていたら、気がついたときには海斗(かいと)くんは教室から姿を消していた。
 仕方ないのでわたしも帰ることにする。
 もう一度だけ、グラウンドを見ておこうと立ち寄れば、水飲み場にうずくまっている男の子を見つけた。

「あれ、海斗(かいと)くん?」

 体調を崩したのかと急いで駆け寄れば、わたしに気がついた海斗(かいと)くんが顔を上げた。その頬には涙のあとこそあるものの、具合が悪いようには見えなかった。

彩良(さら)さん……」
「どうかした?」

 何もなかったわけがないのに、結局、わたしは当たり障りのない聞き方しかできない。
 海斗(かいと)くんは首を横に振って、運動会が楽しかっただけと答えた。
 面白かったならいいことじゃないかと、ここまで来てもなおわたしは能天気だった。
 なんでもっと慎重に接することができなかったんだろう。
 どうしてわたしは海斗(かいと)くんの気持ちに気がつけなかったんだろうか。
 わたしだけは、その悩みをわかってあげなきゃいけなかったはずなのに。

「本当に楽しかったんだ。この2年間で、波中(なみちゅう)に来てからが一番充実している」

 海斗(かいと)くんの目から、また涙がこぼれ落ちる。

「う、うん……」

 感動して泣いているわけじゃないことは、いくらわたしが馬鹿でも察せられた。

「ちょっとずつだけれど、昔のことを思い出しはじめているんだ」
「えっ……」

 頭を殴られたような衝撃が走った。

「俺の人格って残るのかな……」

 ぽつりとしたつぶやき。
 記憶が戻った場合、人格がどうなるのか。そのことを一番不安に思っているのは、海斗(かいと)くん自身だったんだ。

 気安く大丈夫だなんて、わたしは言えない。

「消えたくないな……。でも、みんなだって元の御園生(みそのう)海斗(かいと)に戻ってほしいから、俺を腫れ物のように扱っているんだろう?」

「違うよ、そんなこと――」
「少なくとも俺の両親はそうだよ」

 ぴしゃりと、海斗(かいと)くんがわたしの発言をさえぎる。

「治療を再開したんだ。いい加減、本来の俺に人生を返すべきなんじゃないかって思って」

 口を開く隙なんてない。
 海斗(かいと)くんの根っこの部分は変わっていないと感じた。
 自分のことなんだから、したいようにすればいいのに、それでも海斗(かいと)くんは前の自分に遠慮している。

 優しくて、自分のことよりも他人のことを大切にできる、あのころと同じ性格だ。

「薬を飲んでいるの?」
「基本的に薬物療法はないかな。脳内の環境を大きく変えちゃうから、まずいらしい。錯乱しているとかなら、薬も使われるみたいだけど、夢のような形じゃない。俺も頭を打ったすぐとかなら、フィゾスチグミンって薬を使ったよ」

「そう……なんだ」

 海斗(かいと)くんの言葉に、わたしはどこかほっとしていた。
 だって、まだいっしょにいられるってことだから。

「逆に人とのコミュニケーションは、記憶を取り戻すのに有効らしい」
「――ッ」
「俺にとっては、今の学校生活こそが何よりも効果的な薬だよ」

 仲良くなることを望まなければ、もっと長く波中(なみちゅう)で触れ合えたんだろうか。
 わたしが馬鹿なことを思わなければ、あるいはずっと――。
 もう止められないんだ。
 海斗(かいと)くんの意思とは関係なく、筏航(はいぶね)市で暮らしていればいずれ海斗(かいと)くんは元に戻る。
 わたしの手を海斗(かいと)くんが握った。

「俺、彩良(さら)さんが好き。君だけには、この俺のことを覚えていてほしいんだ」

 わたしも海斗(かいと)くんが好き。
 覚えているよ。
 通学路で迷っていた海斗(かいと)くんも、応急手当がうまかった海斗(かいと)くんも、傘を2つ持って来ちゃった海斗(かいと)くんも……全部ぜんぶわたしは覚えている。

 決して忘れることなんてない。
 そのことをもっと感覚的にわかるようにしたかった。
 気がついたときには、わたしは自分の唇を海斗(かいと)くんに重ねていた。
 大切に取っておいたわけじゃないけれど、ほんの少しだけ胸は痛んだ。てっきり、あのころの海斗(かいと)くんとするものだとばかり思っていたから。

「……初めてだから、特別なものだから」

 これでわたしが忘れることはないでしょう?
 そう聞きたかったけれど、恥ずかしくて顔を上げられない。
 海斗(かいと)くんはありがとうと、泣きそうな声で言っていたような気がした。
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