あと30日で、他人に戻るふたり
会社に着くと、いつもと同じ朝の空気が流れていた。


キーボードの音と、電話の呼び出し音。
コーヒーの匂いと、少し乾いた空気。

全部、先週までと同じはずなのに、なぜか少しだけ居心地が悪い。


「穂村さーん、ちょっといい?」


背後から声をかけられて、すぐに振り向く。

営業の先輩の男性社員、齋藤さんだった。


「先週の会議に上がってた武蔵小金井の案件なんだけど。やっぱり仕様、もう少し詰めたいって話になってて」

「あ、はい」

立ち止まって、齋藤さんが手にしている資料を広げて私に見せてきた。

いつもの、仕事のやり取り。

言われたことを整理して、開発に伝える。
それが私の役割だ。


「前回のを一部変えてある。付箋貼ってあるから、見ておいてくれる?で、穂村さんから見ても大丈夫そうなら、この内容で開発に投げてもらっていいかな?」


さらーっと流し見みたいにページをめくった齋藤さんが、付箋紙がついている箇所を指さす。

まだちゃんと読んでもいない資料を渡されて、反射的にうなずいてしまった。

「分かりました」

「お願いね」

齋藤さんはそれだけ言って、自分のデスクへと戻っていく。


私もそのまま自席に座るとパソコンを立ち上げ、渡された資料を開いて内容を確認する。


────うん、分かる。
言ってることは、おおよそ正しい。


……でも。

マウスを持ったまま、手が止まる。


これでいいの?

頭の中に、あの言葉が浮かぶ。

『やめればいいのに』


そんなふうに考えたこと、一度もなかった。
あっちは軽く言っていたけれど、私にとっては大きいことで。

この仕事しかしてこなかったし、新卒からこの部署にしかいたことがない。

他の場所で、私がやっていけるかどうか。
……そんなの、無理に決まってる。


「……はぁ」

小さく息を吐く。
違和感が、消えない。


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