あと30日で、他人に戻るふたり
齋藤さんのデスクに行く前に、一度だけ足を止める。


……言えるかな。

そんなことを考えている時点で、まだ慣れてない。

そしてたぶん、返り討ちにあってしまうんじゃないかと思って、踏み出すのが怖いのかもしれない。


「…齋藤さん、今ちょっといいですか?」

意を決して声をかけると、齋藤さんがパソコンの画面から視線を外してこちらを見た。

「ん?どうした?」

帰ってきた声は軽い調子で、私がこれから言うことなんて予想もしてないような顔をしている。


そのまま「武蔵小金井の件なんですけど」と、さっきの資料を差し出す。

「開発に確認したら、この仕様だと他の機能に影響出る可能性があるみたいで」

自分でも分かるくらい、少しだけ声が硬い。
緊張しているのが相手にばれているのも、よく分かる。

「このまま進めるのは、ちょっと難しそうです」


言い切ったあと、ほんの少しだけ間が空いた。
この絶妙な沈黙が、今は痛い。

齋藤さんは資料を受け取って、イスにもたれてぱらぱらとめくる。


「……あー、そっかー」

思ったより、あっさりした反応だった。
まるでこうなることが分かっていたみたいな。

「まあ、開発はそう言うよね」


軽く流されたかと思ったけれど、「でも」と続けられた。

「これ、先方けっこう乗り気でさ」

やっぱり、そう来るんじゃないかと踏んでいた。

「ここ変えたら、話がちょっとややこしくなるんだよなぁ」


資料を見ながら、ため息混じりにそう言う。

齋藤さんは私がどう反応するのかを確かめるみたいに、ちらりとこちらを見た。
鋭くも冷たくもない温度の、試すような視線。


いつもなら、ここで終わっていた。

「じゃあそのまま進めますね」って、何も考えずに引き受けていたと思う。


でも、今日はそれじゃいけない。

小さく声を出した。

「……あの、一度仕様を整理した上で、説明し直した方がいいと思います」

喉の奥が少しだけ詰まる。

それでも、やめるわけにはいかなかった。


「このまま進めて、後から問題出る方が大変になると思うので。慎重にいきましょう」

言いながら、心臓の音がうるさい。


齋藤さんは一瞬だけ、目を見開いて私を見た。
その反応がいいのか悪いのか、まだ分からない。

そこまで口を出すなと言われるかもしれない。
どうして今日に限って、とか。そういうことも考えているかもしれない。

まだ心臓が響いている中で、彼はふっと笑った。


「……珍しいね。穂村さんがそういうこと言うの」

からかうわけでもなく、ただ事実を言われたみたいな口調だった。


「……すみません」

反射的に謝りそうになるのを、ぐっと飲み込む。

────違う。謝ることじゃない。

「いえ」と急いで言い直した。


「そうした方がいいと思います」

さっきよりも、少しだけちゃんとした声で。


齋藤さんはしばらく資料を見ていたけれど、やがて小さく息を吐いた。


「……分かった」

ぽつりとそう言って、吹っ切れたような表情を浮かべて資料を閉じる。


「じゃあ一回、開発と詰める方向でいこうか。先方と話すのはそれからにするよ」


その一言で、肩の力が抜けた。

「ありがとうございます!」

まだ緊張だけは抜けきらなくて、勢いよく頭を下げる。

次の瞬間には、齋藤さんは私の必死であろう顔を見て笑っていた。

「いいよ。こっちこそありがとう。またよろしく」


デスクに戻る途中で、ようやく深く息をついた。


────言えた。

ほんの少しだけど、踏み込めた気がする。


他の人からすれば、微々たる変化かもしれない。

それでも、確かに。


ちゃんと変わった気がした。




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