あと30日で、他人に戻るふたり
片手はポケットに手を突っ込んで、中村さんが楽しげに笑う。

「あの手の子って、すぐやれそうだもんな」

「そういう言い方やめろって」

一見、止めたように見えた八代さんは、「まあでも、」と続けた。

「今日、あの同居人いなきゃワンチャンとは思ってた」

「八代、お前が一番ゲスいって。引く手あまたのくせに」

「穂村は諦めよっかなぁ」


頭の中が、真っ白になった。
手の震えも止まらなくて、今ちゃんと立てているのかも分からない。


こんな状態で、手の中にあるスマホをどうしようかと迷ってしまう。
その迷いを払うみたいに、大地さんの手が伸びてきてスマホを抜き取られた。


はっと顔を上げた時には、大地さんが先にあの二人の元へと足を踏み入れていた。

「……どーも」


彼が声をかけるまで、この会話を聞かれていたなんて気づいていなかったらしい。

八代さんたちの顔色が一気に変わったのが分かった。

そして、言葉を失ったみたいにどちらもなにも言い出さない。
その静かな中、大地さんが手のひらで八代さんのスマホをくるくると回した。


「……へぇ」

それだけ言って、八代さんへ視線を向ける。

「人のこと、そんなふうに見てんの?」


対して、気まずい空気の中で何も返せない八代さんは、ふと大地さんの後ろに私がいることがやっと見えたのか、息を飲んだ。

「い、いや。今のはそうじゃなくて…」

「なにが?どう“そうじゃない”って?」

「……あんたに関係なくない?」

初めて八代さんが、大地さんをジロリと睨んだ。

彼のそういう顔を見たことがなかった。
会社ではいつも完璧で、余裕があって、気も回せて、優しく声をかけてくれて。

───あんなに、憧れていたのに。


「すぐやれそう、とか、ワンチャン、とか」

大地さんの低い声は、落ち着いていた。
見慣れた背中が、今だけは私の唯一の拠り所だと思った。

「“仕事に使うかも”、“月曜じゃ間に合わないかも”、“今行けばまだ間に合うかも”って、たかがスマホひとつ届けるのに走ろうとした人を。そんなふうに?」


言い切ったあと、大地さんは弧を描くみたいにスマホを八代さんへ投げた。

「あっぶね!」

と、慌ててそのスマホをキャッチした八代さんは、中村さんと同じように私とは目を合わせない。


「───最低だな」


大地さんはそれだけ言い残し、まだ自力では動けない私の手を引いた。

「美月、行こう」


私はうなずくこともできなくて、かと言って八代さんたちの方を見ることもできなくて。

ただ手を引いてくれている大地さんについていくことだけしかできなかった。



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