あと30日で、他人に戻るふたり
しばらく打ち合わせを続けていると、スペースの入口から「すみません」と小さな声がした。


振り向くと、営業部の齋藤さんがなにやら困った顔で資料を片手に立っている。

「あ、齋藤さん」

私が声をかけると、彼は申し訳なさそうに会釈する。

「ちょっと確認だけさせてほしくて。八代さん、武蔵小金井のテナント候補、最新版こっちで合ってます?」


そう言いながら資料を八代さんに渡している。

軽く確認したあと、八代さんは「うん、大丈夫」とうなずいた。

「ありがとうございます。……なんか途中からほとんど八代さんに任せる感じになっちゃって。本当にすみません」

齋藤さんが今の資料とは別の、分厚い束になっている書類を持ち直して頭をかく。


「別案件の方が今かなりバタついてて…」

「あー、いやいや。そっちの方がデカいし仕方ないじゃん」

八代さんはあっさりした口調で返しながら、資料をぱらぱらとめくった。

「こっちはあとで引き継いでおくから大丈夫」

「助かります。ありがとうございます」


齋藤さんはほっとしたみたいに笑って、「じゃあ、お願いします」と去っていく。

その背中を見送ったあと、私は資料へ視線を戻した。


複数の案件を抱えているのにも関わらず、八代さんは特に疲れた様子も見せない。

むしろ誰かが困っていれば自然に引き受けて、話も早くて、仕事もできる。

少し前までの私は、そういうところを純粋にすごいと思っていた。
実際、今だってそう思う。

営業部の人たちから信頼されている理由も分かる。


……なのに。
ふとした瞬間に、あの夜の言葉だけが頭をよぎってしまって、喉の奥が少しだけ苦くなる。

もう、思い出しちゃだめ。


前みたいに笑えないのは、たぶん───

あの言葉を、彼の奥に根付いているそれを、もう知ってしまったからだ。


「穂村?」

不意に名前を呼ばれて、はっと顔を上げる。
八代さんが不思議そうにこちらを見ていた。

「……あ、すみません。続きをお願いします」


私は慌てて資料に視線を落とした。



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