あと30日で、他人に戻るふたり
「あら、おはようございますー!」

引っ越した次の日にも声をかけられた、お隣のご婦人だ。名前は知らないが。

やっぱり今日もちゃんとしたメイクをしていて、この間みたいなエプロン姿とかではなく、どこかへ出かけるのかバッグを肩にかけている。


「「おはようございます」」


自然に私たちの声が重なる。

たまたまタイミングが合っただけなのに、女性はどこか嬉しそうに微笑んで、そして一緒にエレベーターの前まで歩く。


……気まずい。
この人、たしか私たちのこと、夫婦だと思ってる。


「どう?住み心地。八階建てだと景色もいいでしょう?」

エレベーターを待つ間、女性は悪気なく話しかけてくる。
朝から明るい声、元気な笑顔。

ここで変に詰まると、違和感を植えつけてしまうかもしれない。

「はい!近くにコンビニやスーパーもありますし、便利ですね」

「でしょ〜。若いご夫婦が引っ越してきてくれて、活気が出るねって主人とも話してたのよ」

「あー…」

……私たち、“夫婦”ではないんですけども。

いや、違う。訂正しなさいよ、誰か。


言葉が一切見つからない私がフリーズしていると、隣から声が落ちてきた。

「そちらはここに住んで長いんですか?」


驚きすぎて、たぶん今の私は目も口も開いている。

その私の間抜けな顔を、彼はまったく見ない。

“世間話を自ら振る”という、彼の社会人らしい一面を初めて目の当たりにした。


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