あと30日で、他人に戻るふたり
「俺さ」

まだ肩に置いてある手は離れない。
顔を上げると、思っていたよりも距離が近かった。

「穂村はできるって思ってるんだから。困ったことがあればいつでも、話は聞くよ」


八代さんらしい同じ言い方。いつもと同じトーン。

いつもより明らかに近い距離が、逆に意識させてくる。

「……はい」

返事が、少しだけ遅れた気がした。


八代さんはそれを気にする様子もなく、軽く体を離す。ついでに肩に置かれていた手も離れた。

「ま、期待してる」


胸の奥に、わずかに残る違和感。

褒められているのに。
前なら、もう少し素直に受け取れていたはずなのに。


……なんだろう、このなんともいえない気持ちは。

うまく言葉にできないままの整理できていない頭に、また八代さんが耳元に顔を寄せてきた。


「来週、どっか空いてる?」

「え?あ、はい……」

反射みたいに答えてから、ほんの一瞬だけ間が空く。


「────じゃあさ」

その間を気にする様子もなく、八代さんが続ける。

「今度、メシでも行かない?」


「……はい」


さっきと同じように、すぐに返したつもりだったのに。

自分の中では、わずかに引っかかるものがあった。


「決まりね。日程、あとで送るよ」

「分かりました」


そこで、会話は終わった。

八代さんは営業部のフロアへと戻っていく。


いつも通りの温度を保っていた彼。

ただ────食事に誘われたのは、初めてだった。

それなのに。


パソコンに視線を戻したまま、指だけが無意識に少し止まる。


────少し前の私だったら。

絶対に、素直に嬉しかった気がする。


どうしてすんなりと喜べないのか、理由はうまく浮かばないまま。

浮かびかけては、消えていく。


私はもう一度、キーボードに指を置いた。




••┈┈┈┈••

< 83 / 138 >

この作品をシェア

pagetop