あと30日で、他人に戻るふたり
「“美月”がいいのか、“美月さん”がいいのか、どっちがいい?」

無神経すぎる質問に、心臓が一瞬だけ変な跳ね方をした。

「ど、どっちでも……」

「どっちでもは困る。選んでよ」

急な要求に、すぐには答えを出せない。

……この人、ここまで来ると本当に理解不能すぎて。
私はいつも振り回されっぱなしだ。


「じゃあいいや、“美月”って呼ぶね」

と、勝手に決められる。

「呼びやすいし。自然でしょ」


その一言が、妙に残る。


なにも言えなくなって、視線を逸らす。

落ち着かない。いや、落ち着かないどころか、さっきから心臓が変な音を立てている。


ただ、名前を呼ばれただけなのに。

それだけなのに、さっきまでと同じ空気じゃない気がする。
しかも、私だけ。


「穂村さんは?」

ふと思い出したように、今度は問い返される。


「え?」

「こっちの呼び方。どうする?」

考えたこともなかった。


「……藍沢さん、でいいです」

とりあえずそう答えると、

「外だと変じゃない?」

と、あっさり返される。


「じゃあ…」

ほんの一拍置いてから、

「大地さん?」

自分で言って、変な感じがした。


「うん、それがいいかもね。呼び間違えないでよ」

あっさりと受け入れられる。しかも、釘まで刺された。
その“なんでもない感じ”が、余計に落ち着かない。


「……美月。練習しとかないと、俺も忘れそう」

試すみたいに、もう一度呼ばれる。


やっぱり、慣れない。


名前を呼ばれるだけで、こんなに意識してしまうなんて。
たぶん、向こうは何も考えていないのに。


それが、少しだけ悔しかった。

……どうしてかは、分からないけど。



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