彼と彼女の、最大の不具合
出張3日目。
いつもより少し早く研究室に入ったはずなのに、そこで最初に目に入ったのは、すでに白衣を着て作業に取りかかっている香坂の姿だった。朝の光が窓から差し込んでいて、実験台の上のガラス器具が淡く光っている。その中にいる彼女だけが、やけに現実感が薄く見える。
もしかしたら、昨日のことなんて本当に何もなかったみたいに、いつも通りに戻されるかもしれない――そんな不安が一瞬よぎった瞬間。
「……お、おはよう、右京くん」
少しだけぎこちない声が聞こえた。
「………おはよ」
香坂はその一瞬だけ視線をこちらに向けたものの、すぐにビーカーへと目を戻し、何事もなかったかのように手元の作業を続け始めた。
「(……あれ?意外と……)」
思っていたより、昨日のことを引きずっているのは自分だけじゃないのかもしれない。
いや、むしろ――ほんの少しでも、意識している?ここにきて?やっと?
そんな都合のいい期待が頭をかすめた瞬間、じっと香坂を見つめてしまっていたらしい。次の瞬間には、伸びてきた手に頬をぐっと押されていた。
「集中できないから、あっち行って!」
柔らかいのに容赦のない圧で押される頬の感触に、一瞬思考が止まる。
「(えぇ~……かわいい……)」
今まで見せてこなかった反応だ。いつもなら流していたくせに、今日は妙に距離を詰めてくるし、触れてくるし、そのくせ目はちゃんと合わせてこない。その全部が、逆に意識している証拠に見えてしまう。
口を開きかけて、「茉白」と名前を呼ぼうとした、その瞬間だった。
「右京さん、香坂さん!おはようございます!ちょっといいですか?」
背後から割り込んできた声に、一気に現実へ引き戻される。
呼びかけの途中で途切れた名前が喉の奥に引っかかったまま、振り向くと山口さんが資料を抱えて立っていた。
「あの、ここの配合なんですけど」
差し出されたデータを見ながら、無意識に眉間に力が入る。