恋から逃げるのには理由(わけ)があって
「風早向日葵さん」
声がした。
私は立ち止まれなかった。
立ち止まってはいけないと思った。
でも、体は勝手に硬くなった。
「大空太陽の奥さん、だよね」
その言葉で、足が止まった。
雨上がりの空気が、一瞬で凍った。
ゆっくり振り返る。
街灯の薄い光の下に、男が立っていた。
年齢は、たぶん三十代くらい。細身で、黒いパーカーを着て、濡れた前髪が額に張りついている。
見覚えはなかった。
会社の人でもない。
太陽の事務所の人でもない。
テレビで見た記者でも、ファンイベントの映像で見かけた誰かでもない。
本当に、知らない男だった。
男は笑っていなかった。
でも、目だけが妙に熱を帯びていた。
「やっぱりそうだ」
私はバッグの持ち手を握りしめた。
「……どなたですか」
声を出した瞬間、自分が震えているのがわかった。
男は一歩、近づいた。
「なんで、あんたなんだよ」
意味がわからなかった。
「何の話ですか」
「大空太陽は、あの方のものだろ?」
あの方って、誰?
そう思った瞬間、男の右手がポケットの中で動いた。
私は後ずさった。
「近づかないでください」
「なんで、お前なんかが彼の人生に入り込んでるんだよ」
「違います」
「違わないだろ!」
怒鳴り声が、細い路地に跳ね返った。
「なんで電車にひかれなかったんだよ! なんで会社に行けてるんだよ! なんでまだ別れないんだよ!」
私は反射的に肩をすくめた。
逃げなきゃ。
スマホ。
警察。
太陽。
頭の中で言葉だけが散らばるのに、体が思うように動かない。
男がポケットから何かを取り出した。
街灯の光を受けて、銀色に光った。
刃物。
世界が、急に音を失った。
「早くいなくなれよ」
男が言った。
次の瞬間、彼は私に向かって走ってきた。
声がした。
私は立ち止まれなかった。
立ち止まってはいけないと思った。
でも、体は勝手に硬くなった。
「大空太陽の奥さん、だよね」
その言葉で、足が止まった。
雨上がりの空気が、一瞬で凍った。
ゆっくり振り返る。
街灯の薄い光の下に、男が立っていた。
年齢は、たぶん三十代くらい。細身で、黒いパーカーを着て、濡れた前髪が額に張りついている。
見覚えはなかった。
会社の人でもない。
太陽の事務所の人でもない。
テレビで見た記者でも、ファンイベントの映像で見かけた誰かでもない。
本当に、知らない男だった。
男は笑っていなかった。
でも、目だけが妙に熱を帯びていた。
「やっぱりそうだ」
私はバッグの持ち手を握りしめた。
「……どなたですか」
声を出した瞬間、自分が震えているのがわかった。
男は一歩、近づいた。
「なんで、あんたなんだよ」
意味がわからなかった。
「何の話ですか」
「大空太陽は、あの方のものだろ?」
あの方って、誰?
そう思った瞬間、男の右手がポケットの中で動いた。
私は後ずさった。
「近づかないでください」
「なんで、お前なんかが彼の人生に入り込んでるんだよ」
「違います」
「違わないだろ!」
怒鳴り声が、細い路地に跳ね返った。
「なんで電車にひかれなかったんだよ! なんで会社に行けてるんだよ! なんでまだ別れないんだよ!」
私は反射的に肩をすくめた。
逃げなきゃ。
スマホ。
警察。
太陽。
頭の中で言葉だけが散らばるのに、体が思うように動かない。
男がポケットから何かを取り出した。
街灯の光を受けて、銀色に光った。
刃物。
世界が、急に音を失った。
「早くいなくなれよ」
男が言った。
次の瞬間、彼は私に向かって走ってきた。