恋から逃げるのには理由(わけ)があって
音が戻ったのは、鈍い音のあとだった。

ぐ、と太陽の体が揺れた。

私は何が起きたのか、すぐには理解できなかった。

太陽の背中。
黒いコート。
その横腹のあたりに、男の手がある。

男が刃物を引き抜いた瞬間、赤いものが夜に散った。

「太陽くん……?」

声が出た。

自分の声とは思えなかった。

太陽は男を押し返した。
男は何か叫んだ。意味のない音だった。
遠くで誰かの悲鳴がした。
足音が、ばたばたと近づく。

でも、私は太陽しか見えなかった。

彼の膝が崩れる。

私は駆け寄ろうとした。
けれど、太陽は振り返って、私を見た。

その目は、いつもの目だった。

私を心配する目。
私が転ばないように先に気づく目。
食べているか、眠れているか、嘘をついていないかを見抜く目。

「向日葵」

彼が、私の名前を呼んだ。

私は膝をついた。
濡れた地面の冷たさなんて、もう感じなかった。
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