恋から逃げるのには理由(わけ)があって
――ピンポーン。
音がした。
チャイムの音。
私は目を開けた。
フローリングの床が見えた。
見慣れた、安い蛍光灯。
薄いカーテン。
ローテーブル。
畳みかけの洗濯物。
「……え?」
手が、何かを握っている。
右手には、コンビニの割り箸。
左手には、半額シールつきの冷やし中華。
私は立っていた。
一人暮らししていた部屋の中に。
結婚前の、あの部屋に。
呼吸ができなかった。
だって、この部屋はもう引き払ったはずだ。
婚姻届を出して、彼の部屋へ移って、太陽と暮らすために。
テレビでは、音量を小さくしたバラエティ番組が流れている。
冷蔵庫には飲みかけの麦茶があるはず。
この夜を、私は知っている。
太陽がプロポーズしてくれた日。
王子姿で、私を迎えに来た日。
「嘘……」
喉から掠れた声が出た。
手を見る。
赤くない。
血がついていない。
でも、感触だけが残っている。
太陽の手が、私の手の中で力を失った感触。
あたたかい血の感触。
最後に「生きて」と言った声。
胃の奥がせり上がり、私は口元を押さえた。
ピンポーン。
チャイムが、もう一度鳴った。
体が震えた。
私は玄関を見た。
向こうにいる。
わかっている。
あの日と同じなら、ドアの向こうには王子様がいる。
白いジャケットに金色の刺繍をまとって、15年かけて約束を叶えに来た太陽がいる。
死んだはずの太陽が。
私は割り箸と冷やし中華を持ったまま、ふらふらと玄関へ向かった。
チェーンをかけたまま、ドアを少しだけ開ける。
隙間の向こうに、王子姿の太陽が立っていた。
長いまつげ。
まっすぐな鼻筋。
薄く笑みを含んだ唇。
安っぽい蛍光灯の下でも、映画のワンシーンみたいに見える輪郭。
彼は、私を見て、ほんの少しだけ目元を和らげた。
「風早向日葵。迎えに来た」
その声を聞いた瞬間、私は誓った。
――私と結婚したせいで、あなたは死んでしまった。でも、今度こそ、死なせない。
だから私は、あなたとの恋から全力で逃げる。
音がした。
チャイムの音。
私は目を開けた。
フローリングの床が見えた。
見慣れた、安い蛍光灯。
薄いカーテン。
ローテーブル。
畳みかけの洗濯物。
「……え?」
手が、何かを握っている。
右手には、コンビニの割り箸。
左手には、半額シールつきの冷やし中華。
私は立っていた。
一人暮らししていた部屋の中に。
結婚前の、あの部屋に。
呼吸ができなかった。
だって、この部屋はもう引き払ったはずだ。
婚姻届を出して、彼の部屋へ移って、太陽と暮らすために。
テレビでは、音量を小さくしたバラエティ番組が流れている。
冷蔵庫には飲みかけの麦茶があるはず。
この夜を、私は知っている。
太陽がプロポーズしてくれた日。
王子姿で、私を迎えに来た日。
「嘘……」
喉から掠れた声が出た。
手を見る。
赤くない。
血がついていない。
でも、感触だけが残っている。
太陽の手が、私の手の中で力を失った感触。
あたたかい血の感触。
最後に「生きて」と言った声。
胃の奥がせり上がり、私は口元を押さえた。
ピンポーン。
チャイムが、もう一度鳴った。
体が震えた。
私は玄関を見た。
向こうにいる。
わかっている。
あの日と同じなら、ドアの向こうには王子様がいる。
白いジャケットに金色の刺繍をまとって、15年かけて約束を叶えに来た太陽がいる。
死んだはずの太陽が。
私は割り箸と冷やし中華を持ったまま、ふらふらと玄関へ向かった。
チェーンをかけたまま、ドアを少しだけ開ける。
隙間の向こうに、王子姿の太陽が立っていた。
長いまつげ。
まっすぐな鼻筋。
薄く笑みを含んだ唇。
安っぽい蛍光灯の下でも、映画のワンシーンみたいに見える輪郭。
彼は、私を見て、ほんの少しだけ目元を和らげた。
「風早向日葵。迎えに来た」
その声を聞いた瞬間、私は誓った。
――私と結婚したせいで、あなたは死んでしまった。でも、今度こそ、死なせない。
だから私は、あなたとの恋から全力で逃げる。