恋から逃げるのには理由(わけ)があって

第15話 少しずつずれる日常

――現在。

私はアパートの床に座り込んだまま、自分の両手を見つめていた。

赤くない。
血の匂いもしない。
太陽の手が、私の手の中で力を失っていく感触も、今ここにはない。

ここは二度目の人生の私の部屋だ。
太陽と結婚していない、風早向日葵の部屋。
鍵もチェーンもかかっていて、冷蔵庫には苦めのカラメルのプリンがあり、ローテーブルの上には畳みかけの洗濯物がある。

現実確認の素材が庶民的すぎる。
だが今は、その庶民感にすがりたい。

太陽は生きている。

駅前の高級マンションに住んでいて、私が昨夜川沿いでひどい言葉をぶつけたあとも、ちゃんと距離を取ってくれている。

スマホを拾い上げると、昨夜のメッセージが残っていた。

『今日はごめん。触れないって約束したのに、破った』

その下に、少し時間を置いてもう一通。

『返事しなくていい。ちゃんと寝て』

たったそれだけ。

会いたいとも、話したいとも、結婚しようとも書いていない。
太陽は、本当に私が嫌がる線を踏まないようにしている。

その優しさが、私の胸をまた静かに押した。

「……だから困るんだってば」

私はスマホを伏せた。

太陽を遠ざける。
太陽を生かす。
そのために私は、彼に嫌われてもいい覚悟でいる。

いるはずなのに。

太陽が一歩引くたび、私はなぜか胸の奥で息を止めてしまう。
< 111 / 179 >

この作品をシェア

pagetop