恋から逃げるのには理由(わけ)があって
――午後の仕事は、ひどかった。

請求書の数字を二回間違え、備品発注の画面でコピー用紙ではなくなぜか付箋を十倍量選び、コピー機には三度裏切られた。

「風早さん、今日は帰ったほうがいいんじゃないですか」

志村が心配そうに言った。

「大丈夫。ちょっと脳が芸能ニュースに負けてるだけ」

「それは、大丈夫の範囲なんですか」

「社会人は多少脳が負けても働きます」

「無理しないでください」

その言い方が静かで、私は少しだけ息を吐けた。

志村は踏み込みすぎない。
でも、見捨てもしない。
そういう距離感の優しさは、今の私にはありがたかった。

定時を少し過ぎて会社を出ると、駅前の大型ビジョンに太陽の主演映画の予告が流れていた。

白と金の衣装。
長いマント。
剣を構え、振り返る横顔。

画面の中の太陽は、完璧な王子様だった。

その隣に、別枠の広告として朝比奈絵里奈が映る。
白いワンピースで、透明な笑顔。
テロップには大きく書かれていた。

『映画公式アンバサダー 朝比奈絵里奈』

二人が並んだ瞬間、通行人の女子高生たちが歓声を上げた。

「この二人、付き合ってほしい!」

「美男美女すぎる!」

「王子様と清純派女優とか、現実にいたら最強じゃん」

最強。

その言葉が、妙に胸に残った。

たしかに最強だ。
画面越しに並ぶだけで、物語が完成している。

大空太陽と朝比奈絵里奈。
王子様と清純派若手女優。
世界に向けた映画の顔と、その作品を広めるアンバサダー。

一方、私は普通の会社員。
コピー機に負け、付箋を十倍発注しかけ、半額シールに心を動かされる女。

戦力差が、もはや比較対象として失礼である。

スマホがまた震えた。

太陽かと思って心臓が跳ねたが、通知はSNSだった。
朝比奈絵里奈が新しいストーリーを投稿している。

見なければいい。

見ないほうがいい。

そう思う時点で、もう見る未来が確定しているのはなぜだろう。
人類は同じ過ちを繰り返す生き物である。

私は画面を開いた。

ストーリーには、太陽の横顔が少しだけ映っていた。
たぶんプロモーション撮影の合間。
朝比奈絵里奈の声が、画面の向こうで明るく響く。

『太陽さん、好きなものの話をすると本当に優しい顔になるんです。王子様って、やっぱり一途なんですね』

そのあと、カメラが朝比奈絵里奈自身に向く。
彼女はにこりと笑った。

華やかで、清楚で、隙がない笑顔。

『私も、そんなふうに大切にされる人になれるように頑張ります』

動画はそこで終わった。

私は駅前で立ち尽くした。

投稿としては、たぶん問題ない。
映画のアンバサダーが主演俳優を褒めただけ。
ファンが喜ぶ距離感で、仕事としても上手い。

けれど、最後の一文には、かすかな圧があった。

大切にされる人になれるように。

誰に。
誰から。

考えるな。
考えたら負けだ。

そう思った瞬間、胸の奥で別の声がした。

――これが、私が選んだ未来でしょう。

太陽を拒んだ。
結婚しなかった。
隣に立たなかった。

なら、太陽の隣に別の誰かが立つことに、私は焦る資格なんてない。

それでも。

一度目にはなかった出来事が、私の目の前に現れている。

朝比奈絵里奈。

華やかで、強くて、世間が望む物語を完璧にまとえる女性。
太陽の隣に立っても、誰も違和感を抱かない人。

私はスマホを握りしめた。
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