恋から逃げるのには理由(わけ)があって

第16話 後輩の志村くんは癒し系

翌朝、私は会社のデスクで、エクセルのセルを見つめながら固まっていた。

画面には、備品管理表。
カーソルは「コピー用紙A4」の行で点滅している。
本来なら、発注数を入れて、在庫数を確認して、上司に提出するだけの平和な作業である。

なのに、私の頭の中では別の文字が点滅していた。

『明日は太陽さんと初めてのスペシャル対談。テーマは“運命の恋”。楽しみです』

運命の恋。

朝比奈絵里奈の、あのストーリー。

やめてほしい。
朝から職場の備品管理表にまで、運命の恋を侵入させないでほしい。

私は深呼吸をして、発注数の欄に数字を入れた。

2000。

違う。

コピー用紙2000箱で会社を紙の城にする気か。
私は慌てて削除し、正しい数字を入力し直した。

「風早さん」

名前を呼ばれて顔を上げると、志村優斗が隣に立っていた。

紺色のジャケットに白いYシャツ。
いつも通り、派手さはない。
けれど、寝不足の目にはその落ち着いた配色がやけに優しかった。

「この見積書、午後イチの会議で使う分です。確認お願いできますか」

「あ、うん。見るね」

受け取ろうとした瞬間、手元のマウスが滑った。

画面の発注数欄に、今度は謎の文字列が入力される。

jjjjjjj。

パソコンよ。
私の心の乱れをローマ字で表現しないで。

「……すみません、ちょっと手が」

「大丈夫です」

志村は笑わなかった。
からかいもしなかった。
ただ、画面を見て、静かに言った。

「今日は、午前の細かい発注、僕が拾っておきます。風早さんは見積書だけ見てもらえれば」

「え、でも」

「昨日、僕が一部データ触ってますし。そのほうが早いです」

嘘だ。

たぶん、昨日のデータはほとんど私が触っている。
志村はそれをわかっていて、私の仕事を一部持っていこうとしている。

「いや、大丈夫。ちゃんとやるから」

「ちゃんとやろうとしてるのは、わかります」

彼は穏やかな声で言った。

「でも、今、コピー用紙を2000箱頼みかけてました」

見られていた。

社会人としての信用が、コピー用紙2000箱分崩れ落ちる音がした。

「……会社を紙で守ろうと思って」

「防御力は高そうですね」

志村の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

意外と返してくる。

「じゃあ、発注はお願いします。見積書、先に見ます」

「はい。お願いします」

志村はそれだけ言って、自分の席へ戻っていった。

余計な詮索をしない。
でも、ちゃんと見ている。

その距離感に、私は少しだけ息ができた。
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