恋から逃げるのには理由(わけ)があって
昼休み前、総務部の空気はまたざわついていた。

原因は、もちろん大型芸能ニュースである。

「今日の夜、太陽くんと絵里奈ちゃんの対談配信だって!」

「テーマ、運命の恋でしょ? 絶対見る」

「二人並んだら絵になりすぎるよね」

隣の島から聞こえてくる声に、私は書類へ視線を落とした。
落としただけで、文字はまったく入ってこない。

運命の恋。
大空太陽。
朝比奈絵里奈。

単語の並びだけで、胃がきゅっと縮む。

太陽は、約束通り、何もメッセージを送ってこない。

いいことだ。
非常にいいことだ。
私が望んだ距離だ。

なのに、画面が静かなことにまで胸がざわつくなんて、私はどれだけ勝手なのだろう。

「風早さん」

また名前を呼ばれた。

デスクの端に小さな紙パックが置かれた。

ほうじ茶ラテ。

顔を上げると、志村が立っていた。

「差し入れです」

「え、なんで」

「給湯室のコーヒー、朝から三回作りに行って、一回も飲み切ってなかったので」

見られていた。
また。

「そんなに観察されてると、私の社会人としてのぼろが全部バレるんだけど」

「ぼろというか」

志村は少し考えた。

「今日は、苦いものより、甘いほうがよさそうだったので」

何それ。

静かに的確なことを言わないでほしい。
疲れた心に、ほうじ茶ラテと一緒に染みる。

「……ありがとう。お金、払う」

「いらないです」

「いや、払うよ」

「じゃあ、今度コピー機が紙詰まりした時に、僕を呼んでください」

「それはお金より重労働では?」

「僕、コピー機にわりと勝てます」

さらっと言った彼の横顔が、少しだけ頼もしく見えた。

コピー機に勝てる男。
肩書きとしては地味すぎる。
でも、今の私の世界では、かなり強い。

「ありがとう。いただきます」

紙パックを持つ。
あたたかい。

その温度が、さっきまで冷たかった指先にゆっくり移っていく。
私はストローを刺し、一口飲んだ。

甘い。
ほっとする味だった。

「おいしい」

小さく言うと、志村はそれを聞いたのか聞いていないのか、いつもの声で言った。

「午後の会議資料、十三時半までにまとめます。風早さんは見積書の数字だけ確認してもらえれば」

「……志村くん」

「はい」

「今日、後輩力が高すぎない?」

「いつもは低いですか」

「いや、いつも高いけど。今日は特に癒し系後輩としての完成度がすごい」

言った瞬間、しまったと思った。

職場で後輩男子に癒し系などと言う先輩、どうなのだ。
コンプライアンス研修案件ではないか。

けれど志村は、少しだけ目を丸くしたあと、柔らかく笑った。

「それ、褒め言葉として受け取っていいですか」

「受け取ってください。できれば記録に残さない形で」

「了解です」

彼は紙を一枚めくりながら、静かに言った。

「でも、風早さんも、いつも周りをかなり助けてますよ」

「私が?」

「はい。電話で揉めそうな相手をいつの間にか落ち着かせてたり、誰かの締切を先に気づいて声かけたり、会議室の予約を直しておいてくれたり」

私は固まった。

そんなこと、見られていたのか。

「……地味な作業ばっかりだよ」

「地味でも、助かってる人はいます」

志村はまっすぐ言った。

「僕も、助かってます」

胸の奥が、少しだけ緩んだ。

「……ありがとう」

「いえ」

彼は大げさに照れたりせず、ただ少しだけうなずいて戻っていった。
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