恋から逃げるのには理由(わけ)があって
――定時を少し過ぎたころ、私はパソコンを閉じた。
社内はまだざわついている。
夜の対談配信を見るために早く帰るという声も聞こえた。
大空太陽と朝比奈絵里奈の「運命の恋」。
私はスマホをバッグにしまった。
見ない。
今日は見ない。
絶対見ない。
そう心に決めた時点で、見る可能性が八割くらいあるのが人間の弱さだが、せめて今は決意だけでも立派でいたい。
エレベーター前で、志村と一緒になった。
「風早さん、駅までですか」
「うん」
「僕も同じ方向なので、途中まで」
「あ、じゃあ」
自然な流れだった。
太陽と歩く時みたいに、条件を並べる必要はない。
三歩後ろとか、近づきすぎ禁止とか、結婚の話禁止とか。
そもそも志村は、そんな危険物リストに該当しない。
会社を出ると、外はすっかり夜になっていた。
昼間の雨のせいで、道路は少しだけ湿っている。
街灯の光がアスファルトににじみ、通り過ぎる車のライトが水たまりを一瞬白く光らせた。
「寒いですね」
志村が言った。
「風早さん、薄着ですよね」
「朝、天気予報を信じた私が愚かだった」
「天気予報もたまに裏切りますよね」
「コピー機、天気予報、エクセル。社会人は裏切りに耐えて生きています」
志村が小さく笑った。
笑い方が控えめで、でもちゃんと楽しそうだった。
会社から駅までの道は、交通量が多い。
歩道は広くない。
私は何となく車道側を歩いていたのだけれど、交差点で信号待ちをしたあと、歩き出した瞬間、志村の位置が自然に変わった。
気づけば、彼が道路側を歩いていた。
押しのけたわけではない。
「危ないから」と言ったわけでもない。
私の歩幅に合わせて、会話の流れを切らず、ただすっと場所が入れ替わっていた。
あまりに自然で、最初は気づかなかった。
「……志村くん」
「はい」
「今、道路側に移動した?」
「しました」
「堂々と認めるね」
「隠すことでもないので」
彼は前を見ながら言った。
「車、近いですし」
「慣れてるね」
「妹がいるので」
「ああ、なるほど」
「小さいころ、道路側を歩くと母にすごく怒られました」
「英才教育だ」
「ですね。社会人になって役立つとは思いませんでした」
また、少し笑う。
風が吹いて、私は肩をすくめた。
反射的に、太陽のジャケットの温度を思い出しそうになって、慌てて別のことを考える。
ほうじ茶ラテ。
コピー機。
道路側を歩く後輩。
うん。
安全な単語たちだ。
「風早さん」
志村の声が、いつもより少しだけ低くなった。
「今日、少し無理してましたよね」
私は足を止めなかった。
「そう見えた?」
「はい」
「社会人の鎧が薄かったか」
「鎧というか」
志村は少し間を置いた。
「無理して笑ってる時、風早さんはツッコミが速くなります」
「え、何それ。初耳なんだけど」
「普段も速いですけど、今日は反射神経みたいでした」
「私の心の防衛本能が漫才方式だったとは」
志村は笑った。
今度は、声が少しだけ出た。
その笑い声を聞いて、私の肩から少し力が抜ける。
「何があったかは、聞きません」
彼は静かに言った。
「でも、しんどい時は、仕事くらいなら少し預けてください。僕、後輩なので」
「後輩って、そういう役職だっけ」
「少なくとも、先輩のコピー用紙2000箱発注を止める係ではあります」
「それは本当に助かりました」
私は素直に言った。
「ありがとう。今日」
「ほうじ茶ラテですか」
「それも。発注も。あと、道路側」
「どういたしまして」
彼は大げさに喜ばない。
当然みたいに受け取る。
その穏やかさが、今の私にはとても楽だった。
社内はまだざわついている。
夜の対談配信を見るために早く帰るという声も聞こえた。
大空太陽と朝比奈絵里奈の「運命の恋」。
私はスマホをバッグにしまった。
見ない。
今日は見ない。
絶対見ない。
そう心に決めた時点で、見る可能性が八割くらいあるのが人間の弱さだが、せめて今は決意だけでも立派でいたい。
エレベーター前で、志村と一緒になった。
「風早さん、駅までですか」
「うん」
「僕も同じ方向なので、途中まで」
「あ、じゃあ」
自然な流れだった。
太陽と歩く時みたいに、条件を並べる必要はない。
三歩後ろとか、近づきすぎ禁止とか、結婚の話禁止とか。
そもそも志村は、そんな危険物リストに該当しない。
会社を出ると、外はすっかり夜になっていた。
昼間の雨のせいで、道路は少しだけ湿っている。
街灯の光がアスファルトににじみ、通り過ぎる車のライトが水たまりを一瞬白く光らせた。
「寒いですね」
志村が言った。
「風早さん、薄着ですよね」
「朝、天気予報を信じた私が愚かだった」
「天気予報もたまに裏切りますよね」
「コピー機、天気予報、エクセル。社会人は裏切りに耐えて生きています」
志村が小さく笑った。
笑い方が控えめで、でもちゃんと楽しそうだった。
会社から駅までの道は、交通量が多い。
歩道は広くない。
私は何となく車道側を歩いていたのだけれど、交差点で信号待ちをしたあと、歩き出した瞬間、志村の位置が自然に変わった。
気づけば、彼が道路側を歩いていた。
押しのけたわけではない。
「危ないから」と言ったわけでもない。
私の歩幅に合わせて、会話の流れを切らず、ただすっと場所が入れ替わっていた。
あまりに自然で、最初は気づかなかった。
「……志村くん」
「はい」
「今、道路側に移動した?」
「しました」
「堂々と認めるね」
「隠すことでもないので」
彼は前を見ながら言った。
「車、近いですし」
「慣れてるね」
「妹がいるので」
「ああ、なるほど」
「小さいころ、道路側を歩くと母にすごく怒られました」
「英才教育だ」
「ですね。社会人になって役立つとは思いませんでした」
また、少し笑う。
風が吹いて、私は肩をすくめた。
反射的に、太陽のジャケットの温度を思い出しそうになって、慌てて別のことを考える。
ほうじ茶ラテ。
コピー機。
道路側を歩く後輩。
うん。
安全な単語たちだ。
「風早さん」
志村の声が、いつもより少しだけ低くなった。
「今日、少し無理してましたよね」
私は足を止めなかった。
「そう見えた?」
「はい」
「社会人の鎧が薄かったか」
「鎧というか」
志村は少し間を置いた。
「無理して笑ってる時、風早さんはツッコミが速くなります」
「え、何それ。初耳なんだけど」
「普段も速いですけど、今日は反射神経みたいでした」
「私の心の防衛本能が漫才方式だったとは」
志村は笑った。
今度は、声が少しだけ出た。
その笑い声を聞いて、私の肩から少し力が抜ける。
「何があったかは、聞きません」
彼は静かに言った。
「でも、しんどい時は、仕事くらいなら少し預けてください。僕、後輩なので」
「後輩って、そういう役職だっけ」
「少なくとも、先輩のコピー用紙2000箱発注を止める係ではあります」
「それは本当に助かりました」
私は素直に言った。
「ありがとう。今日」
「ほうじ茶ラテですか」
「それも。発注も。あと、道路側」
「どういたしまして」
彼は大げさに喜ばない。
当然みたいに受け取る。
その穏やかさが、今の私にはとても楽だった。