恋から逃げるのには理由(わけ)があって
第17話 すれ違い
《太陽視点》
スタジオの外へ出ると、夜の空気は雨上がりの匂いがした。
アスファルトに残った水たまりが街灯を拾い、ビルの窓に反射した光が、足元で小さく揺れている。撮影用の照明とは違う、生活の中の光だった。
俺は黒いキャップを深くかぶり直し、マスクの位置を指で直した。
マネージャーの新庄が、手元のタブレットを見ながら言った。
「次の現場は朝比奈さんとの対談ですね。今日の対談、かなり反響出ると思います。朝比奈さん側もすぐ切り抜きを出すそうです」
「わかった」
返事はした。
けれど、俺の意識はタブレットの画面にはなかった。
ポケットの中のスマホが、やけに重い。
向日葵からの返信は、来ていない。
先日、川沿いで彼女を怖がらせた。
触れないと約束したのに、寒そうだからとジャケットをかけ、仕事を頑張っている彼女を見て、思わず頭に触れた。
たった一度。
でも、たった一度が、彼女には大きすぎた。
『名前を呼ばないで!』
あの声が、まだ耳の奥に残っている。
怒っていた。
傷ついていた。
それ以上に、怯えていた。
俺が近づくたび、向日葵は何かを思い出すような顔をする。
俺に向ける視線の奥には、いつも痛みがある。
拒絶だけじゃない。
嫌悪でもない。
まるで、俺を見ながら、俺ではない何かを見ているような。
その輪郭に、俺はまだ触れられずにいる。
「太陽さん?」
新庄に呼ばれ、俺は顔を上げた。
「すみません。疲れてます?」
「少し」
「じゃあ車、回します。現場寄る前に、何か飲み物でも買いますか」
「いや、いい」
そう言いかけて、ふと足が止まった。
通りの向こうに、駅へ向かう人の流れが見えた。
傘を閉じた会社員。
学生らしい二人組。
コンビニの袋を提げた老人。
誰もが自分の生活の中を歩いている。
その中に、見慣れた後ろ姿があった。
薄手のコート。
肩にかかる髪。
少しだけ内側へ入る歩き方。
向日葵。
胸が、一瞬で熱くなった。
名前を呼びそうになって、止めた。
彼女は一人ではなかった。
隣に、男がいた。
紺色のジャケットを着た、落ち着いた雰囲気の若い男。
彼は車道側を歩いていた。
無理に向日葵に近づくわけでもなく、気取ったふうでもなく、ただ自然に危ない側へ立っている。
向日葵が何か言った。
彼が小さく笑った。
その瞬間、向日葵も笑った。
俺は、動けなくなった。
彼女は、あんな顔で笑うのか。
俺の前では、いつも身構えている。
軽口を叩いても、視線の奥には緊張がある。
笑っても、次の瞬間には自分を叱るように唇を引き結ぶ。
俺が一歩近づけば、一歩下がる。
俺が名前を呼べば、息を止める。
俺が優しくしようとすれば、苦しそうな顔をする。
なのに、今の向日葵は違った。
肩の力が抜けていた。
笑い方が軽かった。
ツッコミを入れる口元に、痛みがなかった。
彼は、彼女の速度に合わせて歩いていた。
急かさない。
踏み込まない。
でも、離れすぎない。
その距離が、あまりにも上手かった。
俺がどれだけ意識しても、なかなか作れない距離だった。
「太陽さん?」
新庄の声が、遠くから聞こえた。
「……少し待って」
俺は通りの影に立ったまま、二人を見ていた。
見てはいけないと思った。
でも、目を離せなかった。
信号待ちで、向日葵が風に肩をすくめる。
志村が何か言う。
向日葵が少し顔を上げ、また笑う。
大声で笑っているわけじゃない。
恋人同士みたいに寄り添っているわけでもない。
ただ、会社帰りに並んで歩いているだけだ。
それなのに、俺にはその光景がひどくまぶしかった。
向日葵の生活。
俺が突然踏み込んだ、彼女の普通の日々。
コピー機に裏切られ、エクセルに祈り、備品の在庫を数え、同僚たちと会話をして、駅まで歩いて帰る。
その中に、彼は自然にいる。
俺はどうだ。
15年前の約束を抱えて、王子の衣装で玄関に立った。
プロポーズした。
近くに住んだ。
雑炊を作った。
荷物を持った。
誕生日の0時にメッセージを送った。
彼女が風邪の俺を看病してくれた夜、彼女の秘密に近づこうとした。
全部、俺の気持ちだった。
向日葵を好きだという気持ち。
会いたいという気持ち。
守りたいという気持ち。
失いたくないという気持ち。
でも、その気持ちは、彼女にとって重荷なのかもしれない。
病室で、生きる理由をくれたあの子に会いたかった。
王子様になって迎えに行く約束を、どうしても果たしたかった。
けれど、向日葵は今、俺に迎えに来てほしくなかったのかもしれない。
俺が彼女の前に現れなければ、彼女はこうして笑っていられたのかもしれない。
彼が、横断歩道の手前で少し腕を出した。
車が水たまりを跳ねそうになったからだ。
触れはしない。
ただ、向日葵が前へ出すぎないよう、合図だけをした。
向日葵はそれに気づき、「ありがとう」と言ったように見えた。
胸の奥に、鋭いものが刺さった。
嫉妬だ。
情けないくらい、はっきりした嫉妬。
彼が羨ましかった。
向日葵にあんな顔をさせられる彼が。
彼女の生活の中に、あんなに静かに立っていられる彼が。
俺は世界中のカメラの前で笑える。
言葉の通じない国でも演技ができる。
役のために、礼儀作法も剣も乗馬も身につけてきた。
けれど、向日葵の隣を歩くことは、こんなにも下手だ。
「……次の現場に行こう」
俺は小さく言った。
「わかりました。車、こっちです」
俺は最後にもう一度、通りの向こうを見た。
向日葵と彼は、駅の方向へ歩いていく。
二人の距離は近すぎず、遠すぎず、同じ夜の中に自然に収まっていた。
俺はその背中を見送りながら、スマホを握りしめた。
送ってはいけない。
会いたいと。
今見かけたと。
その男は誰だと。
そんな言葉を送る資格は、俺にはない。
俺は彼女の恋人ではない。
夫でもない。
彼女に拒まれている男だ。
それでも好きだ。
それでも、彼女を見つけたら心が勝手に向かってしまう。
だからこそ、止めなければならない。
向日葵のために。
スタジオの外へ出ると、夜の空気は雨上がりの匂いがした。
アスファルトに残った水たまりが街灯を拾い、ビルの窓に反射した光が、足元で小さく揺れている。撮影用の照明とは違う、生活の中の光だった。
俺は黒いキャップを深くかぶり直し、マスクの位置を指で直した。
マネージャーの新庄が、手元のタブレットを見ながら言った。
「次の現場は朝比奈さんとの対談ですね。今日の対談、かなり反響出ると思います。朝比奈さん側もすぐ切り抜きを出すそうです」
「わかった」
返事はした。
けれど、俺の意識はタブレットの画面にはなかった。
ポケットの中のスマホが、やけに重い。
向日葵からの返信は、来ていない。
先日、川沿いで彼女を怖がらせた。
触れないと約束したのに、寒そうだからとジャケットをかけ、仕事を頑張っている彼女を見て、思わず頭に触れた。
たった一度。
でも、たった一度が、彼女には大きすぎた。
『名前を呼ばないで!』
あの声が、まだ耳の奥に残っている。
怒っていた。
傷ついていた。
それ以上に、怯えていた。
俺が近づくたび、向日葵は何かを思い出すような顔をする。
俺に向ける視線の奥には、いつも痛みがある。
拒絶だけじゃない。
嫌悪でもない。
まるで、俺を見ながら、俺ではない何かを見ているような。
その輪郭に、俺はまだ触れられずにいる。
「太陽さん?」
新庄に呼ばれ、俺は顔を上げた。
「すみません。疲れてます?」
「少し」
「じゃあ車、回します。現場寄る前に、何か飲み物でも買いますか」
「いや、いい」
そう言いかけて、ふと足が止まった。
通りの向こうに、駅へ向かう人の流れが見えた。
傘を閉じた会社員。
学生らしい二人組。
コンビニの袋を提げた老人。
誰もが自分の生活の中を歩いている。
その中に、見慣れた後ろ姿があった。
薄手のコート。
肩にかかる髪。
少しだけ内側へ入る歩き方。
向日葵。
胸が、一瞬で熱くなった。
名前を呼びそうになって、止めた。
彼女は一人ではなかった。
隣に、男がいた。
紺色のジャケットを着た、落ち着いた雰囲気の若い男。
彼は車道側を歩いていた。
無理に向日葵に近づくわけでもなく、気取ったふうでもなく、ただ自然に危ない側へ立っている。
向日葵が何か言った。
彼が小さく笑った。
その瞬間、向日葵も笑った。
俺は、動けなくなった。
彼女は、あんな顔で笑うのか。
俺の前では、いつも身構えている。
軽口を叩いても、視線の奥には緊張がある。
笑っても、次の瞬間には自分を叱るように唇を引き結ぶ。
俺が一歩近づけば、一歩下がる。
俺が名前を呼べば、息を止める。
俺が優しくしようとすれば、苦しそうな顔をする。
なのに、今の向日葵は違った。
肩の力が抜けていた。
笑い方が軽かった。
ツッコミを入れる口元に、痛みがなかった。
彼は、彼女の速度に合わせて歩いていた。
急かさない。
踏み込まない。
でも、離れすぎない。
その距離が、あまりにも上手かった。
俺がどれだけ意識しても、なかなか作れない距離だった。
「太陽さん?」
新庄の声が、遠くから聞こえた。
「……少し待って」
俺は通りの影に立ったまま、二人を見ていた。
見てはいけないと思った。
でも、目を離せなかった。
信号待ちで、向日葵が風に肩をすくめる。
志村が何か言う。
向日葵が少し顔を上げ、また笑う。
大声で笑っているわけじゃない。
恋人同士みたいに寄り添っているわけでもない。
ただ、会社帰りに並んで歩いているだけだ。
それなのに、俺にはその光景がひどくまぶしかった。
向日葵の生活。
俺が突然踏み込んだ、彼女の普通の日々。
コピー機に裏切られ、エクセルに祈り、備品の在庫を数え、同僚たちと会話をして、駅まで歩いて帰る。
その中に、彼は自然にいる。
俺はどうだ。
15年前の約束を抱えて、王子の衣装で玄関に立った。
プロポーズした。
近くに住んだ。
雑炊を作った。
荷物を持った。
誕生日の0時にメッセージを送った。
彼女が風邪の俺を看病してくれた夜、彼女の秘密に近づこうとした。
全部、俺の気持ちだった。
向日葵を好きだという気持ち。
会いたいという気持ち。
守りたいという気持ち。
失いたくないという気持ち。
でも、その気持ちは、彼女にとって重荷なのかもしれない。
病室で、生きる理由をくれたあの子に会いたかった。
王子様になって迎えに行く約束を、どうしても果たしたかった。
けれど、向日葵は今、俺に迎えに来てほしくなかったのかもしれない。
俺が彼女の前に現れなければ、彼女はこうして笑っていられたのかもしれない。
彼が、横断歩道の手前で少し腕を出した。
車が水たまりを跳ねそうになったからだ。
触れはしない。
ただ、向日葵が前へ出すぎないよう、合図だけをした。
向日葵はそれに気づき、「ありがとう」と言ったように見えた。
胸の奥に、鋭いものが刺さった。
嫉妬だ。
情けないくらい、はっきりした嫉妬。
彼が羨ましかった。
向日葵にあんな顔をさせられる彼が。
彼女の生活の中に、あんなに静かに立っていられる彼が。
俺は世界中のカメラの前で笑える。
言葉の通じない国でも演技ができる。
役のために、礼儀作法も剣も乗馬も身につけてきた。
けれど、向日葵の隣を歩くことは、こんなにも下手だ。
「……次の現場に行こう」
俺は小さく言った。
「わかりました。車、こっちです」
俺は最後にもう一度、通りの向こうを見た。
向日葵と彼は、駅の方向へ歩いていく。
二人の距離は近すぎず、遠すぎず、同じ夜の中に自然に収まっていた。
俺はその背中を見送りながら、スマホを握りしめた。
送ってはいけない。
会いたいと。
今見かけたと。
その男は誰だと。
そんな言葉を送る資格は、俺にはない。
俺は彼女の恋人ではない。
夫でもない。
彼女に拒まれている男だ。
それでも好きだ。
それでも、彼女を見つけたら心が勝手に向かってしまう。
だからこそ、止めなければならない。
向日葵のために。