恋から逃げるのには理由(わけ)があって
――しばらくすると、インターホンが鳴った。

画面には新庄の顔が映っていた。
俺がドアを開けると、彼は紙袋をひとつ差し出した。

「これ、夕飯です。どうせ食べてないと思ったので」

「ありがとう」

「顔、かなり悪いですよ」

「風邪は治った」

「そういう意味じゃないです」

新庄は部屋に入らず、玄関先で腕を組んだ。

「何がありました?」

「何も」

「太陽さんが何もない時にそういう顔をするなら、僕はマネージャーを辞めたほうがいいですね」

俺は苦笑した。

「向日葵を見かけた」

「風早さんを?」

「会社帰りに。会社の同僚ぽい男と一緒に歩いてた」

新庄はすぐには何も言わなかった。
ただ、俺の顔を見て、静かにうなずいた。

「それで?」

「楽しそうだった」

自分で言った言葉が、胸に落ちた。

「俺といる時より、ずっと自然に笑ってた」

「……そうですか」

「彼は、たぶんいい人だ。向日葵の生活を壊さない。急に押しかけたりしない。彼女が嫌がることをしない。彼女の仕事も、普通の毎日も、ちゃんと同じ場所から見てる」

「太陽さん」

「俺は、何をしてるんだろうな」

声が少し掠れた。

「好きだからって、約束したからって、彼女の前に押しかけて。近くに住んで。連絡先をもらって。誕生日を祝って。看病されたら嬉しくて、距離を間違えて」

向日葵の顔が浮かんだ。

『私を……私を、好きにさせようとしないで』

あの言葉は、告白ではなかった。
悲鳴だった。

俺の好意は、彼女を追い詰めている。

好きだから近づく。
近づくほど、彼女は苦しむ。
それなのに、俺はまた近づきたくなる。

そんなものは、愛じゃない。

ただの執着だ。

「向日葵が幸せなら」

言葉にすると、胸の奥がきしんだ。

「俺じゃなくてもいいのかもしれない」

新庄が目を細めた。

「本気で言ってます?」

「本気かどうかは、わからない」

正直に言った。

「俺は諦めが悪い。15年も同じ人を好きでいられるくらいには、しつこい。向日葵が他の誰かと笑っているところを見るだけで、こんなに苦しい」

「でしょうね」

「でも、彼女のためを考えるなら、俺が離れたほうがいいのかもしれない」

新庄は、しばらく黙っていた。

それから、低く言った。

「太陽さん、自分で思っているより風早さんのことになると暴走しますよ」

「知ってる」

「なら、僕が止めます」

「頼む」

新庄はため息をついた。

俺は、向日葵に近づくことばかり考えていた。
どうしたら会えるか。
どうしたら話せるか。
どうしたら、もう一度俺を見てくれるか。

でも、彼女が望んでいるのは、たぶんそういうことじゃない。

安心して息ができる場所。
怯えずに笑える距離。
自分の普通の生活を守れる日々。

彼の隣で笑っていた向日葵には、それがあった。

俺の隣では、まだない。

「ありがとう」

俺が言うと、新庄は肩をすくめた。

「仕事ですから」

「それ以上に助かった」

「じゃあ夕飯食べてください。胃を空にしたまま恋愛で深刻になると、ろくな判断をしません」

「マネージャーの仕事範囲、広いな」

「太陽さんが広げてるんです」
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