恋から逃げるのには理由(わけ)があって
新庄が帰ったあと、俺は紙袋の中の弁当をテーブルに置いた。

食欲はなかった。
でも、向日葵がいたら言うだろう。

食べてください。
病人じゃなくても、人間は食べないと動けません。
世界的俳優でもエネルギー補給は必須です。

その声を想像して、少しだけ笑った。

笑った瞬間、胸が痛んだ。

「向日葵」

声に出すと、部屋に名前だけが落ちた。

彼女に届かない名前。

俺は目を閉じた。

彼女から距離を取る。
そう決めたはずなのに、胸の奥ではまだ、子どものころの自分が必死に手を伸ばしている。

生きてよ、と泣いた向日葵。
約束するから、と手を握ってくれた向日葵。
王子様になって迎えに行った夜、ドアの向こうで俺を拒んだ向日葵。
そして今夜、別の男の隣で少しだけ楽に笑っていた向日葵。

全部、同じ彼女だ。

俺が好きな、たった一人の人だ。

だからこそ、俺はスマホを伏せた。

その夜、向日葵からの返信は来なかった。

俺も、送らなかった。

たったそれだけの距離が、こんなにも遠いものだと知りながら。
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