恋から逃げるのには理由(わけ)があって
夜の空気は少し冷たかった。
駅前のほうへ歩く。
いつものスーパーまでは、アパートから大通りを抜けて五分ほど。
何度も通った道だ。
間違えるはずがない。
なのに。
私は気づいたら、細い路地の入口に立っていた。
「……え?」
足が止まった。
スーパーは、ここではない。
大通りの向こうだ。
この路地を通る必要なんて、まったくない。
なのに私は、ぼんやりと考えごとをしながら、いつの間にかここまで来てしまっていた。
古いビルの壁。
雨でも降ったみたいに黒く光るアスファルト。
奥に一本だけ立つ街灯。
壁際の小さな排水溝。
非常階段の影。
知っている。
この場所を、私は知っている。
一度目の人生で、太陽が死んだ路地だ。
胃の奥が、冷たく沈んだ。
あの夜の匂いが戻ってくる。
雨上がりの湿った空気。
鉄みたいな匂い。
赤い回転灯。
私の手の中で、太陽の指から力が抜けていった感触。
「だめ……」
私は一歩下がろうとした。
その時、路地の向こうに黒い車が止まった。
反射的に、私は近くの自動販売機の影へ身を隠した。
何をしているのだ、私は。
不審者か。
いや、不審者は私ではなく状況のほうだ。こんな時間に、こんな場所で、黒塗りの車。ドラマなら絶対に何か起きる。
後部座席のドアが開いた。
降りてきたのは、太陽だった。
黒いスーツに、番組で見た時と同じ白いシャツ。
テレビの中より少し疲れた顔をしていたけれど、それでも夜の路地に立つだけで空気が変わる。
胸が跳ねた。
名前を呼びそうになって、私は唇を噛んだ。
続いて、反対側のドアから朝比奈絵里奈が身を乗り出した。
淡い色のコートを肩にかけ、髪は完璧に整っている。
夜の路地裏でさえ、彼女の周囲だけ番組の照明が残っているみたいだった。
そして運転席には、男がいた。
細身の男。
黒いジャケット。
ハンドルに置かれた白い指。
街灯がフロントガラスに反射して、顔の半分が見えた。
その瞬間、心臓が止まりかけた。
見覚えがある。
一度目の人生のあの夜、刃物を持って私に向かってきた男。
濡れた前髪。
温度のない目。
「いなくなればいい」と言った口元。
服装は違う。
場所も、時間も、状況も違う。
でも、顔が同じだった。
私は声を失った。
駅前のほうへ歩く。
いつものスーパーまでは、アパートから大通りを抜けて五分ほど。
何度も通った道だ。
間違えるはずがない。
なのに。
私は気づいたら、細い路地の入口に立っていた。
「……え?」
足が止まった。
スーパーは、ここではない。
大通りの向こうだ。
この路地を通る必要なんて、まったくない。
なのに私は、ぼんやりと考えごとをしながら、いつの間にかここまで来てしまっていた。
古いビルの壁。
雨でも降ったみたいに黒く光るアスファルト。
奥に一本だけ立つ街灯。
壁際の小さな排水溝。
非常階段の影。
知っている。
この場所を、私は知っている。
一度目の人生で、太陽が死んだ路地だ。
胃の奥が、冷たく沈んだ。
あの夜の匂いが戻ってくる。
雨上がりの湿った空気。
鉄みたいな匂い。
赤い回転灯。
私の手の中で、太陽の指から力が抜けていった感触。
「だめ……」
私は一歩下がろうとした。
その時、路地の向こうに黒い車が止まった。
反射的に、私は近くの自動販売機の影へ身を隠した。
何をしているのだ、私は。
不審者か。
いや、不審者は私ではなく状況のほうだ。こんな時間に、こんな場所で、黒塗りの車。ドラマなら絶対に何か起きる。
後部座席のドアが開いた。
降りてきたのは、太陽だった。
黒いスーツに、番組で見た時と同じ白いシャツ。
テレビの中より少し疲れた顔をしていたけれど、それでも夜の路地に立つだけで空気が変わる。
胸が跳ねた。
名前を呼びそうになって、私は唇を噛んだ。
続いて、反対側のドアから朝比奈絵里奈が身を乗り出した。
淡い色のコートを肩にかけ、髪は完璧に整っている。
夜の路地裏でさえ、彼女の周囲だけ番組の照明が残っているみたいだった。
そして運転席には、男がいた。
細身の男。
黒いジャケット。
ハンドルに置かれた白い指。
街灯がフロントガラスに反射して、顔の半分が見えた。
その瞬間、心臓が止まりかけた。
見覚えがある。
一度目の人生のあの夜、刃物を持って私に向かってきた男。
濡れた前髪。
温度のない目。
「いなくなればいい」と言った口元。
服装は違う。
場所も、時間も、状況も違う。
でも、顔が同じだった。
私は声を失った。