恋から逃げるのには理由(わけ)があって
隠密行動、終了。
自動販売機の影に隠れる一般庶民の女、王子様に発見される。
刑事ドラマなら職質される場面である。

でも、私は動けなかった。

足が床に縫い止められたみたいだった。
手も、指先も、冷たい。
目の前にいる太陽が生きていることよりも、さっき運転席にいた男の顔が、頭の中で何度も何度も光る。

太陽が近づいてきた。

「向日葵、顔が青い」

その声が、本当に心配そうで、胸が痛くなった。

彼は途中で足を止めた。
私が逃げない距離を測るみたいに、一歩手前で止まった。

「……見てた?」

私は答えられなかった。

太陽は、私の沈黙を別の意味に受け取ったらしい。
少しだけ目を伏せた。

「朝比奈さんとは、仕事だけの関係だ」

「違う」

声が、かすれた。

太陽が顔を上げる。

「今日の番組も、さっきの車も、俺が言う資格はないかもしれないけど……誤解されたくない」

「違うの」

「連絡しないで、会いにも行かないで、距離を取ったほうが向日葵の幸せのためにはいいのかと思った」

その言葉に、私は息を止めた。

太陽の声は静かだった。
静かすぎて、痛かった。

「向日葵が俺の前で苦しそうな顔をするのは、俺が近づくからだと思った。だから、我慢しようと思った。強引に距離を詰めないで、待って、向日葵の生活に入らないようにしようって」

彼は苦く笑った。

「でも、だめだった」

「太陽くん」

「諦めきれない」

夜の路地で、その言葉はまっすぐ落ちた。

「朝比奈さんと噂になっても、仕事で誰かに隣に立たれても、俺の気持ちは変わらない。向日葵が俺を選ばなくても、それでも……」

「違うの、そうじゃないの!」

自分でも驚くくらい大きな声が出た。

太陽が動きを止めた。

私は両手を握りしめた。
違う。
嫉妬じゃない。
いや、嫉妬もあった。情けないくらいあった。
でも今、私の顔が青い理由はそれじゃない。

「朝比奈さんのことじゃない。太陽くんが誰かと一緒だったからじゃない。そうじゃなくて……」

言葉が喉に引っかかった。

どう説明すればいい。
一度死んだ太陽を見た、と。
私は一度あなたの妻だった、と。
あなたはこの路地で私を庇って殺された、と。

そんなことを、どうやって。

太陽は静かに私を見ていた。

「向日葵」

低い声だった。

「何か隠してる?」
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