恋から逃げるのには理由(わけ)があって
その瞬間、私は無意識に右手首を左手でつかんだ。
ぎゅっと。
痛いくらいに。
太陽の視線が、その手元へ落ちた。
彼の目が、変わった。
「その仕草」
私は手を離そうとした。
でも、指が動かなかった。
「向日葵は、怖い時にそれをする」
太陽が言った。
「嘘をついてる時じゃない。何かを我慢してる時。言いたいことを飲み込んでる時」
私の喉が震えた。
「……やめて」
「やめない」
その声は、強かった。
でも怖くはなかった。
「向日葵が嫌がることはしない。触れない。無理に聞き出さない。でも、今の顔を見て、何も聞かずに帰ることはできない」
太陽は一歩も近づかなかった。
ただ、まっすぐ私を見ていた。
「俺に関係あること?」
胸の奥で、何かが崩れた。
もう、一人で抱えるには重すぎた。
逃げるための嘘も、拒絶の言葉も、全部ぼろぼろになっていた。
私は小さく息を吸った。
「……ある」
太陽の表情が固まる。
「太陽くんに、関係ある」
言ってしまった。
そう思った瞬間、涙がこぼれた。
「私は、一度目の人生で、あなたと結婚した」
太陽は何も言わなかった。
街灯の光が、彼の横顔を白く照らしている。
彼はただ、私の言葉を受け止めようとしていた。
「この人生じゃない。今じゃない。前の人生で。あなたは王子姿で私の部屋に来て、プロポーズして、私は断らなかった。結婚した。秘密の結婚だったけど、一緒に暮らしてた」
声が震える。
「親子丼を作った。鮭のおかゆも作った。みかんゼリーも買った。あなたは風邪を引くと、子どもみたいにそれを欲しがった。仕事で疲れて帰ってきても、ただいまって言ってくれた」
太陽の目が揺れた。
「だから私は知ってる。あなたが本当はどうやって笑うかも、家でどんなふうに力を抜くかも、卵雑炊の味も、頭を撫でる手の温度も」
もう止まらなかった。
「でも、ある夜、私が襲われた。ここで。知らない男に。刃物を持っていて、私を殺そうとして……太陽くんが、私を庇った」
言葉が裂けた。
「刺されたの。私の代わりに。救急車が来る前に、私の手の中で……」
声が出なくなった。
太陽の顔から血の気が引いていた。
けれど彼は、逃げなかった。
目を逸らさなかった。
「あなたは、最後に言った。生きてって」
私は泣きながら笑った。
笑えたのかどうかはわからない。
「それで、目が覚めたら、あの夜に戻ってた。あなたが王子姿でプロポーズに来る夜。だから私は、今度こそあなたを死なせないために、逃げるって決めた。あなたと結婚しない。好きにならない。私のせいで、あなたを死なせないって」
太陽は、長い沈黙のあと、低く言った。
「向日葵」
「信じられないでしょ?」
私は涙を拭えなかった。
「おかしいよね。人生をやり直したとか、前の人生で結婚してたとか、あなたが死んだとか。そんなの、普通は信じられない」
太陽は首を横に振った。
「信じられる」
即答だった。
私は息を止めた。
「……なんで」
「やっとわかったから。向日葵が、ずっと俺を見てるときの顔の理由が」
彼の声は震えていた。
でも、迷いはなかった。
「俺を嫌いな顔じゃなかった。怖がってるのに、懐かしそうで、苦しそうで、泣きそうで。俺が知らない俺を、向日葵は何度も見てた」
太陽は、唇を噛んだ。
「もしそれが嘘なら、あんな顔で俺から逃げない」
胸の奥が、また壊れそうになった。
「太陽くん……」
「信じる。全部、信じる」
その言葉に、私はとうとう右手首から力を抜いた。
ぎゅっと。
痛いくらいに。
太陽の視線が、その手元へ落ちた。
彼の目が、変わった。
「その仕草」
私は手を離そうとした。
でも、指が動かなかった。
「向日葵は、怖い時にそれをする」
太陽が言った。
「嘘をついてる時じゃない。何かを我慢してる時。言いたいことを飲み込んでる時」
私の喉が震えた。
「……やめて」
「やめない」
その声は、強かった。
でも怖くはなかった。
「向日葵が嫌がることはしない。触れない。無理に聞き出さない。でも、今の顔を見て、何も聞かずに帰ることはできない」
太陽は一歩も近づかなかった。
ただ、まっすぐ私を見ていた。
「俺に関係あること?」
胸の奥で、何かが崩れた。
もう、一人で抱えるには重すぎた。
逃げるための嘘も、拒絶の言葉も、全部ぼろぼろになっていた。
私は小さく息を吸った。
「……ある」
太陽の表情が固まる。
「太陽くんに、関係ある」
言ってしまった。
そう思った瞬間、涙がこぼれた。
「私は、一度目の人生で、あなたと結婚した」
太陽は何も言わなかった。
街灯の光が、彼の横顔を白く照らしている。
彼はただ、私の言葉を受け止めようとしていた。
「この人生じゃない。今じゃない。前の人生で。あなたは王子姿で私の部屋に来て、プロポーズして、私は断らなかった。結婚した。秘密の結婚だったけど、一緒に暮らしてた」
声が震える。
「親子丼を作った。鮭のおかゆも作った。みかんゼリーも買った。あなたは風邪を引くと、子どもみたいにそれを欲しがった。仕事で疲れて帰ってきても、ただいまって言ってくれた」
太陽の目が揺れた。
「だから私は知ってる。あなたが本当はどうやって笑うかも、家でどんなふうに力を抜くかも、卵雑炊の味も、頭を撫でる手の温度も」
もう止まらなかった。
「でも、ある夜、私が襲われた。ここで。知らない男に。刃物を持っていて、私を殺そうとして……太陽くんが、私を庇った」
言葉が裂けた。
「刺されたの。私の代わりに。救急車が来る前に、私の手の中で……」
声が出なくなった。
太陽の顔から血の気が引いていた。
けれど彼は、逃げなかった。
目を逸らさなかった。
「あなたは、最後に言った。生きてって」
私は泣きながら笑った。
笑えたのかどうかはわからない。
「それで、目が覚めたら、あの夜に戻ってた。あなたが王子姿でプロポーズに来る夜。だから私は、今度こそあなたを死なせないために、逃げるって決めた。あなたと結婚しない。好きにならない。私のせいで、あなたを死なせないって」
太陽は、長い沈黙のあと、低く言った。
「向日葵」
「信じられないでしょ?」
私は涙を拭えなかった。
「おかしいよね。人生をやり直したとか、前の人生で結婚してたとか、あなたが死んだとか。そんなの、普通は信じられない」
太陽は首を横に振った。
「信じられる」
即答だった。
私は息を止めた。
「……なんで」
「やっとわかったから。向日葵が、ずっと俺を見てるときの顔の理由が」
彼の声は震えていた。
でも、迷いはなかった。
「俺を嫌いな顔じゃなかった。怖がってるのに、懐かしそうで、苦しそうで、泣きそうで。俺が知らない俺を、向日葵は何度も見てた」
太陽は、唇を噛んだ。
「もしそれが嘘なら、あんな顔で俺から逃げない」
胸の奥が、また壊れそうになった。
「太陽くん……」
「信じる。全部、信じる」
その言葉に、私はとうとう右手首から力を抜いた。