恋から逃げるのには理由(わけ)があって
沈黙。

「……はい?」

「この近くのマンション。家具付きで、今日から入れる」

「今日から」

「うん」

「いつ借りたんですか」

「昨日、帰ってから」

「昨日、帰ってから」

思わず復唱してしまった。
現実を飲み込むための咀嚼である。噛んでも噛んでも飲み込めない。

「夜中に?」

「そう。事務所と、管理会社と、知り合いの不動産関係者に」

「人脈が怖い」

「合法的に」

「またそれですか」

太陽は少しだけ首を傾げた。

「駅前の、ガラス張りの建物。知ってる?」

知っている。
知りすぎている。

私がいつも使うコンビニの向かいにある、やたら背の高い高級マンションだ。
入口に季節の花が飾られていて、制服のコンシェルジュが立っていて、一階の観葉植物でさえ私より良い暮らしをしていそうな、あの建物。

「あそこならセキュリティがいい。地下から出入りできるし、取材対応にも慣れてる。ここまで歩いても近い」

「最後の一文がいちばん問題です」

「ホテルだと目立つ。事務所が用意する部屋だと少し遠い。だから、近くがよかった」

「近くがよかった、で借りられる場所じゃありません」

「借りられた」

「そういう成功体験を積まないでください」

この人は、世界のほうを自分の速度に合わせて変えてしまう。

昨日、私に会いに来た。
プロポーズした。
断られた。
それなら同居しようとスーツケースを持ってきた。
それも断られた。
では近くの高級マンションを借りました。

行動の階段を三段飛ばしどころか、エレベーターで屋上まで行っている。

「太陽くん」

「うん」

「行動力って、もっと人に優しくするために使うものだと思います」

「向日葵に優しくしたい」

「今のところ、行動力の暴力です」

言った瞬間、太陽はまばたきをした。

それから、少し困ったように笑った。

「暴力か」

「はい。かなり」

「じゃあ、気をつける」

「気をつける方向性が、たぶん私とあなたで三十度くらい違います」

「三十度なら、近づける」

「前向きに受け取らないでください」

笑いそうになって、私は唇を引き結んだ。

危ない。
こういうところだ。

太陽は、強引で、常識のスケールがおかしくて、財力も人脈も行動力も一般人のそれではない。
なのに、私の言葉をちゃんと聞く。

だから、逃げにくい。

嫌いになりきれない隙間に、彼はまっすぐ光を差し込んでくる。

「向日葵」

太陽は、スーツケースのハンドルを下げた。

「ここには住まない。約束する。勝手に入らないし、合鍵も求めない。夜中に押しかけるのも、できるだけやめる」

「できるだけ?」

「会いたくなるかもしれない」

「やめてください」

「努力する」

「昨日からその努力の信用が薄いです」

太陽はマスクをつけ直し、スーツケースのハンドルを伸ばした。
がらり、と小さな音が玄関に響く。

「また来る」

太陽は小さく笑って、ドアを開けた。
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