恋から逃げるのには理由(わけ)があって
太陽が玄関へ向かう。
入ってきた新庄は、落ち着いたスーツ姿だった。だが、その目は鋭い。

「事情は、ざっくり太陽さんから聞きました」

「ざっくりで伝わりました?」

「あなたが二度目の人生を送られているという、だいぶファンタジーな内容ですが、太陽さんが信じているなら僕もその前提で動きました」

仕事ができる人は、常識外への順応まで速い。
私なら三日は寝込みたい。

新庄はタブレットをテーブルに置いた。

「橘蓮司。朝比奈絵里奈の個人マネージャー。表向きは敏腕です。彼女が売れる前からついていて、仕事を取る力があると業界では評価されています」

「表向きは、ってことは」

「裏もあります」

新庄は淡々と言った。

「まず、映画の公式アンバサダー就任の件。制作側の候補には、当初、朝比奈絵里奈さんの名前はありませんでした」

太陽の表情がわずかに変わる。

「聞いてない」

「太陽さんには伝わらないようになっていました。橘が、宣伝会社の担当者と制作委員会の一部に強く食い込んでいます。金だけではないでしょう。弱みを握っていた可能性が高い」

私は思わず雑炊のレンゲを止めた。

「弱み?」

「写真、金銭トラブル、過去の不祥事。そういうものを集めて、必要な時にちらつかせる。いわゆる黒い人脈です」

黒い人脈。
卵雑炊の湯気とは正反対の単語である。

「朝比奈さんは、それを知ってたんですか」

私が聞くと、新庄は少しだけ間を置いた。

「少なくとも、知らなかったとは言えない証拠がいくつかあります」

タブレットの画面に、メッセージのスクリーンショットが表示された。

『太陽さんの隣に立つなら、普通の仕事の取り方じゃ足りない』

『蓮司ならできるでしょう?』

『あの方にふさわしい場所を用意します』

最後の文を見た瞬間、私の背中が凍った。

あの方。

一度目の人生で、橘が言った言葉。

『大空太陽は、あの方のものだろ?』

私の指先が震えた。
それに気づいた太陽が、テーブルの下でそっと私の手に触れた。

「……あの方って」

「朝比奈絵里奈さんのことです」

新庄の声は低かった。

「橘は、身内の一部とのやり取りで朝比奈さんをそう呼んでいました。崇拝に近い。彼女自身も、その呼び方を否定していない」

喉がからからになる。

一度目の人生で私を襲った男は、太陽の熱狂的なファンでも、通り魔でもなかった。

朝比奈絵里奈のために動いていた。
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