恋から逃げるのには理由(わけ)があって
「一度目で、橘は私に言いました。なんであんたなんだよって。太陽の奥さんだよねって」

口にすると、あの夜の雨の匂いが戻ってきそうになる。

けれど、太陽の手がそこにあった。
あたたかい。
生きている。

「たぶん、前の人生では、私と太陽くんが結婚していることを知ったんです。朝比奈さんが太陽くんに執着していて、橘がそれを叶えようとして……私を」

「排除しようとした」

新庄が静かに継いだ。

その言葉は怖かった。
でも、初めて輪郭を持った。

見えない悪意ではない。
名前がある。理由がある。調べられる。

それだけで、恐怖は少しだけ違うものになった。

太陽が低く言った。

「朝比奈さんの目的は?」

新庄は画面を切り替えた。

「太陽さんへの執着です。彼女は以前から、太陽さんの出演作、インタビュー、スケジュールを異常に追っていた。海外滞在時期まで把握していた記録があります。事務所宛てに直接共演希望を出したことも複数回」

「知らなかった」

「太陽さんに届く前に、こちらで処理されていたものもあります」

新庄はさらに別の資料を開いた。

「今回のアンバサダー就任も、映画を宣伝したいからではない。太陽さんに近づくためです。橘がそのために、宣伝会社の担当者を脅し、制作側の一部へ不正な便宜を図らせた。証拠は押さえました」

「いつの間に」

思わず声が漏れた。

新庄は眼鏡を押し上げた。

「太陽さんから連絡を受けてから、知人の弁護士、セキュリティ会社、広告代理店の古い伝手に確認を取りました。太陽さんの海外エージェント経由で、制作委員会側の正式な記録も照会しています」

「数時間で?」

「はい」

シゴデキが過ぎる。
私が卵雑炊を三口食べる間に、世界が動いている。

太陽の人脈も怖いし、新庄の処理速度も怖い。
だが今は、その怖さが味方である。心強い怖さ。新しいジャンルだ。
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