恋から逃げるのには理由(わけ)があって
低い声だった。

私の背中に、一度目の夜が重なる。

けれど、今ここには刃物はない。
太陽は私の前に飛び出していない。
新庄が即座に視線で警備員へ合図した。

大丈夫。
今度は同じじゃない。

朝比奈絵里奈は、しばらく黙っていた。

やがて、ふ、と笑った。

清純派女優の笑顔ではなかった。
綺麗だけれど、冷たい笑顔だった。

「だって、不公平でしょう」

会議室の空気が凍る。

「私はずっと見てきたんです。太陽さんがどれだけ孤独に努力して、どれだけ完璧な王子様になったか。誰よりも隣に立つ資格があるのは、彼を理解している私のはずだった」

太陽は、静かに言った。

「俺を理解しているなら、俺の意思を無視しない」

絵里奈の目が揺れる。

「あなたの意思なんて、まだ決まってないだけです。周りがちゃんと物語を作れば、世間は受け入れる。あなたもそれを自分の意志だと思うようになる。太陽さんには、ふさわしい相手が必要なんです」

「俺のことを決めるのは世間じゃない」

太陽の声は、低くまっすぐだった。

「俺自身だ」

絵里奈は私を見た。

その視線が、ようやく私に刺さる。

「……あなたね」

柔らかい声なのに、刃みたいだった。

「太陽さんが最近、変だった理由。あなただったんだ」

私は膝の上で手を握った。

怖い。
怖いけれど、目を逸らさない。

「私は、太陽くんの意思を奪うつもりはありません」

声は少し震えた。
でも、言えた。

「だから、あなたにも奪わせません」
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