恋から逃げるのには理由(わけ)があって
――そこからは早かった。

映画制作側は、即日、朝比奈絵里奈のアンバサダー契約解除を決定した。
宣伝会社の担当者も外された。
橘蓮司は警察へ連れて行かれた。
殺人は、この人生ではまだ犯していない。
けれど、彼が積み上げていた別の悪事は、逃げ切れるほど軽くなかった。

脅迫。
不正な情報取得。
虚偽情報の流布。
金銭の受け渡し。
そして、私への監視指示。

ひとつひとつは、あの夜の刃物ほど派手ではない。
でも、それらは確かに同じ未来へ続く階段だった。

その階段を、私たちは途中で壊したのだ。

会議室を出たあと、廊下の窓から警察車両に乗せられる橘の背中が見えた。

私は思わず立ち止まった。

太陽が隣で、静かに聞いた。

「大丈夫?」

私はすぐには答えられなかった。

橘が車に乗せられる。
扉が閉まる。
車がゆっくり走り出す。

一度目の人生で、彼は太陽を殺した。
私の手の中で太陽の体温が消えていった。
あの恐怖は、消えない。
なかったことにはならない。

でも今、太陽は隣にいる。

生きている。
立っている。
私の名前を呼んでくれる。

「……うん。大丈夫」

私は息を吐いた。

「だって、あなたは生きているから」

太陽の目が、やわらかくなる。

「そっか」

太陽は、私の手にそっと触れた。

「向日葵」

「はい」

「一緒に変えたな」

その言葉で、涙が出そうになった。

「うん」

私は太陽の手を握り返した。

今度は、血で濡れていない手。
あたたかくて、力のある手。

太陽は生きている。
私も、逃げるだけではなくなった。

その事実が、胸の中でゆっくり灯る。

廊下の先で、新庄が振り返った。

「お二人とも、これから事務所で今後の対応を詰めます。恋愛ドラマはあとでお願いします」

「してません!」

反射的に叫ぶと、太陽が隣で小さく笑った。

新庄は真顔のまま言った。

「手をつないでいます」

「これは、その、戦友としての」

「便利な言葉ですね」

ぐうの音も出ない。

けれど、恥ずかしさの中に、少しだけ笑いが戻ってきた。

怖かった。
今も怖い。
でも、笑える。

それがどれほど大きなことか、私はもう知っている。

太陽は私の手を離さなかった。

私も、離さなかった。
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