恋から逃げるのには理由(わけ)があって
――駅前の高級マンションは、近くで見るとますます別世界だった。

自動ドアが静かに開き、ロビーには季節の花が飾られている。コンシェルジュが太陽を見るなり、自然な笑顔で会釈した。

部屋は、広かった。

広い、というか、私の部屋が何個入るのか計算したくない広さだった。
大きな窓の向こうに街が見える。キッチンは雑誌に載っているみたいに白くて、シンクは無駄に光っていて、コンロが私のアパートより自信満々だった。

「数時間前に入居した人の部屋じゃないですね」

「最低限、整えてもらった」

「最低限の意味が違う」

「調味料は自分で買った」

「そこは庶民的で安心しました」

太陽はキャップとマスクを外し、手を洗ってから、奥の部屋へ消えた。
私はリビングの端に座った。

「向日葵、そこだと遠くない? 姿が見えづらいんだけど?」

「遠くていいです。見えなくて結構です」

「……わかった。水、置いておく」

戻ってきた太陽を見て、私は言葉を失った。

白いシャツ一枚。

柔らかそうな黒いルームパンツ。
袖は肘までまくられていて、第一ボタンが外れている。

部屋着、らしい。
本人はいたって普通の顔をしている。

普通とは。

王子の衣装より危険度が高い。
生活感があるのに、なぜか色気が増している。

この国に、シャツ一枚で料理する世界的俳優を取り締まる法律はないのか。
ないなら今すぐ作ってほしい。
逮捕したい。

「何?」

「何でもありません」

「暑い?」

「違います」

「顔、赤い」

「照明です」

言ってから自分でも無理があると思った。
照明がついていなかったからだ。
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