恋から逃げるのには理由(わけ)があって
鍋の中では、しょうがの匂いが立ち上がっていた。
鶏肉と米がやわらかく煮えて、最後に溶き卵が細く流し込まれる。ふわりと黄色が広がった瞬間、懐かしさが胸に落ちた。
知っている。
この匂いを、私は知っている。
この手際を、知っている。
疲れた日に、食べられないと言う私へ、太陽が作ってくれた卵雑炊。
前の人生のキッチン。
夜の静かな部屋。
窓の外の雨。
「一口でいいから」と笑った彼の横顔。
私は、箸を持つ手に力を込めた。
今の太陽は知らない。
私がその味を、すでに知っていることを。
私たちが、ただの幼馴染ではなかった時間を。
「どうぞ」
目の前に器が置かれた。
卵のやわらかい黄色と、刻んだ小ねぎ。湯気が立って、しょうがの香りが鼻先をかすめる。
「胃に負担が少ないと思う」
「……病院食みたいな気遣いですね」
「食べられないときの向日葵は、無理するとすぐ顔に出るから」
その言い方が自然すぎて、胸が痛かった。
彼はこの人生では、十数年前の子どものころの私しか知らないはずだ。
なのに、核心を引き当てるみたいに言う。
私はレンゲで一口すくい、口に入れた。
あたたかい。
それだけで、喉の奥が苦しくなった。
やさしい味だった。薄すぎず、濃すぎず、しょうがが少しだけ効いている。疲れた体が、ゆっくり回復する味。
「……おいしいです」
言ってから、しまったと思った。
太陽の顔が、ぱっと明るくなったからだ。
映画の宣伝で見せる完璧な笑顔じゃない。もっと無防備で、子どもみたいに嬉しそうな顔。
その顔を、私は知っている。
一度目の結婚生活で、何度も見た。
「よかった」
たったそれだけの言葉なのに、部屋が少しあたたかくなった。
鶏肉と米がやわらかく煮えて、最後に溶き卵が細く流し込まれる。ふわりと黄色が広がった瞬間、懐かしさが胸に落ちた。
知っている。
この匂いを、私は知っている。
この手際を、知っている。
疲れた日に、食べられないと言う私へ、太陽が作ってくれた卵雑炊。
前の人生のキッチン。
夜の静かな部屋。
窓の外の雨。
「一口でいいから」と笑った彼の横顔。
私は、箸を持つ手に力を込めた。
今の太陽は知らない。
私がその味を、すでに知っていることを。
私たちが、ただの幼馴染ではなかった時間を。
「どうぞ」
目の前に器が置かれた。
卵のやわらかい黄色と、刻んだ小ねぎ。湯気が立って、しょうがの香りが鼻先をかすめる。
「胃に負担が少ないと思う」
「……病院食みたいな気遣いですね」
「食べられないときの向日葵は、無理するとすぐ顔に出るから」
その言い方が自然すぎて、胸が痛かった。
彼はこの人生では、十数年前の子どものころの私しか知らないはずだ。
なのに、核心を引き当てるみたいに言う。
私はレンゲで一口すくい、口に入れた。
あたたかい。
それだけで、喉の奥が苦しくなった。
やさしい味だった。薄すぎず、濃すぎず、しょうがが少しだけ効いている。疲れた体が、ゆっくり回復する味。
「……おいしいです」
言ってから、しまったと思った。
太陽の顔が、ぱっと明るくなったからだ。
映画の宣伝で見せる完璧な笑顔じゃない。もっと無防備で、子どもみたいに嬉しそうな顔。
その顔を、私は知っている。
一度目の結婚生活で、何度も見た。
「よかった」
たったそれだけの言葉なのに、部屋が少しあたたかくなった。