恋から逃げるのには理由(わけ)があって
――15年前。

病院の廊下は、いつも少しだけ寒かった。

床はぴかぴかに磨かれていて、蛍光灯は白くて、消毒液の匂いが鼻の奥に残る。子どもの私には、それだけで病院という場所が大きな怪物みたいに思えた。

太陽が入院したのは、夏が終わるころだった。
最初は「少し長く休むだけ」と聞いていた。風邪より重くて、でもきっと治る。大人たちはみんな、そういう顔で笑っていた。

だから私も信じていた。
太陽はすぐ戻ってくる。
ランドセルを背負って、また私の手を引いて走ってくれる。

けれど、その日、私は病室へ行く前に、廊下の角で母の声を聞いた。

「……そんなに、悪いんですか」

母の声は、聞いたことがないくらい小さかった。

太陽のお母さんが、泣くのを我慢している声で何かを答えた。お医者さんらしい男の人が、難しい言葉を並べていた。病名も、治療の名前も、子どもの私にはほとんど分からなかった。

ただ、いくつかの言葉だけが、白い廊下の向こうから落ちてきた。

長くはない。
覚悟を。
春までは、難しいかもしれない。

その瞬間、病院の床が遠くなった。

太陽が死ぬ。

私は持っていた紙袋をぎゅっと抱きしめた。
中には、折り紙と、漫画と、病院の売店で買ったプリンが入っていた。太陽の好きな、少しだけ苦いカラメルのやつ。

泣いてはいけないと思った。
私が泣いたら、太陽が心配する。
太陽は、いつも人の心配ばかりする子だった。自分がベッドにいるのに、私が転んだら「大丈夫?」と起き上がろうとする。そんな太陽の前で、私が泣くわけにはいかなかった。

私は震えそうな右手首を、左手でつかんだ。

ぎゅっと。
痛いくらいに。

それから、顔だけを無理やり明るくして、病室のドアを開けた。
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