恋から逃げるのには理由(わけ)があって
その時だった。

ガチャ、と隣の部屋のドアが開く音がした。

私は反射的に息を止めた。

「……あら?」

隣に住んでいる佐伯の声だった。
たぶん七十代。いつもゴミ出しの時間が正確で、回覧板を渡すときに必ず飴をくれる、アパート内良識代表みたいな人である。

その良識代表が、今、共用廊下で王子姿の世界的俳優と遭遇している。

終わった。

「まあまあまあ。テレビの人じゃないの」

終わった。

「こんばんは。夜分にすみません」

太陽の声が、急に外向きの柔らかさになる。
礼儀正しい。声さえも完璧。

「撮影かしら?」

「いえ、個人的な用事で」

個人的な用事の内容が「十数年ぶりに再会した幼馴染に求婚」なの、どう考えても訳がわからない。

私はドアに額をつけた。
冷たい。玄関ドア、ありがとう。今だけ友達。

「でも、こんな時間に女の子の部屋の前でねえ。最近は物騒だから。何かあったら警察を――」

警察。

その単語で、私の理性が起立した。

だめだ。
ここで通報なんてされたら困る。
王子姿の大空太陽が深夜のアパートで警察沙汰。ネットニュースの見出しが脳内で自動生成される。

『世界的俳優・大空太陽、深夜に女性宅前で騒動』

『相手女性は幼馴染か』

『プロポーズ報道の真相は』

やめて。
私の平凡な人生を検索候補に載せないで。

私は急いでチェーンを外し、ドアを開けた。

「佐伯さん、大丈夫です!知り合いです!本当に!」
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