恋から逃げるのには理由(わけ)があって
――翌日の夕方、チャイムが鳴った。

私はクッションの下からスマホを救出したばかりで、冷蔵庫の前で牛乳の賞味期限とにらみ合っているところだった。

ピンポーン。

「……まさか」

チェーンをかけたままドアを開ける。

隙間の向こうには、黒いキャップとマスクの男が立っていた。

「こんばんは、向日葵」

「帰ってください」

「今日は用件を先に言う」

「先に言えば許されるシステムではありません」

「連絡先を教えてほしい」

私は目を細めた。

「なぜ」

「突然来ないようにするため」

論理が卑怯だった。

私が一番困っていることを、改善策として差し出してくる。しかも確かに、連絡先を知らないから来る、という理屈は一応通っている。通っているけれど、そもそも来ないという選択肢を忘れている。

「……条件があります」

「うん」

「深夜の連絡禁止」

「何時から深夜?」

「二十二時以降」

「早い」

「私の人生では二十二時以降は深夜です」

「わかった」

「結婚の話、禁止」

「努力する」

「そこは、わかった、でお願いします」

「……わかった」

「スタンプ連打禁止。長文ポエム禁止。『会いたい』だけ送るの禁止。既読を急かすの禁止。私が返信しなくても追撃禁止」

「了解」

素直すぎて逆に怖い。

私はチェーン越しにスマホを出し、QRコードを表示した。差し出した瞬間、太陽の目が少しだけやわらかくなる。

やめて。

連絡先を教えただけで、そんな嬉しそうな顔をしないで。
野良猫に初めて手から餌を食べてもらった人みたいな顔をしないで。

誰が野良猫だ。私か。私だな。

スマホが小さく鳴った。
画面に表示された名前は、大空太陽。
当たり前なのに、心臓に悪い。

「ありがとう」

「突然来ないためですからね」

「うん。今日はもう帰る」

あっさり言って、太陽は本当に一歩下がった。

拍子抜けした。

「……本当に帰るんですか」

「向日葵がそう言ったから」

「いいことです。とてもいいことです。人類はそうやって信頼を築きます」

「じゃあ、少しは信頼された?」

「現在、マイナス100だったところからマイナス98くらいにはなりました」

「二つ上がった」

「前向きすぎる」

太陽は、目元だけで笑った。
彼は、それ以上踏み込まずに廊下を歩いていった。
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