恋から逃げるのには理由(わけ)があって
――その日の夜。

私は、誕生日を迎えようとしていた。

大人の誕生日というものは、子どものころよりずっと静かだ。

ケーキも風船も、ろうそくの数を数えて盛り上がる家族もいない。あるのは、仕事と洗濯物と、明日のゴミ出しと、年齢欄に記入する数字がひとつ増える現実だけ。

それでいい。

私はそういう静けさが嫌いではなかった。

その時、ぴ、と、スマホが震えた。

私は振り向いた。

時計の表示は、0:00ぴったりだった。

画面に、通知が出ている。

大空太陽。

『Happy Birthday』

たったそれだけの英文が、部屋の空気を変えた。

私は、しばらく動けなかった。

深夜禁止って言った。

二十二時以降は深夜だと、明確に通達した。

つまりこれは規則違反である。大空太陽、コンプライアンス研修を受け直してほしい。

迷惑だ。
迷惑に決まっている。

そう言い聞かせながら、私はスマホを手に取った。

通知を開く。
既読がつく。

続けて、もう一通届いた。

『深夜禁止を破ってごめん。会いには行かない。プレゼントも押しつけない。ただ、今日最初に言いたかった』

さらに少し間を置いて、もう一行。

『生まれてきてくれてありがとう、向日葵』

胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。

派手じゃない。
花束も、高価なアクセサリーも、サプライズもない。
ただ、0時ぴったりの短いLINE。
それだけなのに、私は呼吸の仕方を一瞬忘れた。

好きだった。

私は、この人のこういう優しさが好きだった。
強引なくせに、最後の線は踏み越えないところ。
世界の真ん中で光っているのに、私の小さな誕生日を、0時ぴったりに覚えているところ。

「……迷惑」

声に出した。
でも、声が弱かった。

迷惑だ。
迷惑なはずだ。
なのに、嬉しい。

認めた瞬間、私は負ける気がした。
だから、認めない。
私は震える指で返信を打った。

『ありがとうございます。深夜は禁止です』

送信した瞬間、後悔した。

素っ気ない。いや、素っ気なくていい。むしろ正解。これが大人の距離感である。誕生日に0時LINEを送ってくる世界的俳優への適切な行政指導である。

すぐに既読がついた。

『うん。ごめん。今日だけ』

今日だけ。

その言葉に、また胸が揺れた。

私は画面を見つめたまま、何も打てなかった。

すると、さらに一通。

『返信しなくていい。おやすみ。いい一日になりますように』

本当に、それきりだった。

追撃は来ない。
会いたいとも言わない。
結婚とも言わない。

彼は、私が並べた条件のほとんどを守って、たった一つだけ破った。

誕生日の0時に、おめでとうを言うためだけに。

「そういうのが……」

困るんだよ。

最後まで言えなかった。

私はスマホを伏せ、布団に入った。
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