恋から逃げるのには理由(わけ)があって
――駅前のマンションは、夕方の光を受けて静かに立っていた。

コンシェルジュに部屋番号を伝えると、少し待ってからエレベーターへ案内された。

部屋の前でインターホンを押す。

数秒後、かすれた声がした。

「向日葵?」

「宅配です」

「声でわかる」

「では人道支援です。開けられますか」

鍵の開く音がした。

ドアを開けた太陽を見て、私は言葉を失った。

黒いスウェット。乱れた髪。マスク越しでもわかる赤い目元。
いつもならそこに立っているだけで空間をスクリーンに変える男が、今日は玄関の壁に片手をついている。顔色が悪い。なのに、私を見た瞬間、ほっとしたように目を細めた。

「来てくれたんだ」

「病人は感動していないで寝てください」

「誕生日なのに、ごめん」

「誕生日の女に風邪を引いて謝る男、新ジャンルですね」

軽口で返したのに、声が少し硬くなった。
彼の弱った姿は、私の中の古い恐怖を簡単に起こす。

太陽は私を中に入れると、すぐに一歩下がった。

「移るかもしれないから、近づかないほうがいい」

「その判断力があるなら、食事をしてください」

「食欲ない」

「病人の定型文ですね。却下します」

私は手を洗い、マスクをつけ直し、買ってきたものをキッチンに並べた。
太陽はソファに座らせた。私が「ソファ」と指さしたら素直に移動した。高熱の王子様は思ったより従順だった。
< 57 / 179 >

この作品をシェア

pagetop