恋から逃げるのには理由(わけ)があって
佐伯が部屋に戻るのを見届けた瞬間、私は太陽の袖をつかんだ。

「入って」

「いいの?」

「よくないけど入って。今すぐ。ニュースになる前に」

太陽は一瞬だけ目を見開き、それから小さくうなずいた。

私は彼を玄関に押し込んで、すぐにドアを閉めた。
鍵をかける。チェーンもかける。ついでに心のシャッターも下ろしたい。誰かリモコンをください。

狭い玄関に、王子姿の男が立っていた。

いや、違和感。

私のアパートの玄関は、通販で買った安い傘立てと、昨日脱いだスニーカーと、百均の芳香剤が似合う場所だ。そこに、刺繍の入った白いジャケットと、長い脚と、映画祭のレッドカーペットを歩く顔がある。

空間の格差がひどい。
玄関が緊張している。

太陽は、靴を脱ぐ前に私を見た。

「入れてくれてありがとう」

「通報されたくなかっただけです」

「それでも、ありがとう」

素直に言われると困る。
だから私は、ぶっきらぼうに部屋のほうを指さした。

「話したら帰ってください」

「わかった」

「あと、大声出さないでください。壁、薄いので」

「わかった」

「結婚って単語も禁止です」

「それは難しい」

「帰れ」

「努力する」

努力する方向を間違えている。

太陽は靴をきちんと揃え、部屋へ上がった。
その所作までいちいち綺麗で、私は何だか腹が立つ。どうして、靴の脱ぎ方まで完璧なのだ。せめて片方ひっくり返してくれれば、こちらも「世界的俳優も人間だな」と思えるのに。
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