恋から逃げるのには理由(わけ)があって
部屋に戻ると、手に持っていた冷やし中華をローテーブルの上に置いた。
半額シールが、蛍光灯の下で慎ましく光っている。

太陽の視線がそこへ落ちた。

「食事中だった?」

「はい。あなたのせいで食べ損ねています」

「ごめん」

「謝ればいいと思ってます?」

「思ってない。買い直そうか?」

「そういう問題でもないです」

「じゃあ、作る」

「もっと違います」

大空太陽が私の狭いキッチンで冷やし中華を作る世界線、想像しただけでカオスである。

私はローテーブルの向こうに座り、太陽には玄関に近い場所を指さした。

「そこにいてください」

「遠い」

「近いと困るんです」

「俺は困らない」

「私が困るんです」

太陽は、少しだけ黙った。
それから、指示された場所に腰を下ろした。

王子が床に正座した。

「……なんで正座?」

「向日葵が警戒してるから」

「正座されても警戒は解けません」

「じゃあ、どうしたらいい?」

そんなまっすぐ聞かれても困る。

どうしたらいいかなんて、私が知りたい。

「……突然、迎えに来たとか、結婚しようとか。普通に考えておかしいです」

「普通じゃないのは、わかってる」

太陽は膝の上で手を組んだ。
長い指。雑誌の広告で、宝石を引き立てていた手。

その手が昔、私の手を引いて走っていたことを、私は知っている。
夏祭りの人混みで迷子にならないように。
雨上がりの公園で、水たまりを飛び越えるために。
泣いていた私に、「大丈夫」と言ってくれたことを。

知っているから、余計に苦しい。

「向日葵は、俺のことが嫌い?」

太陽が静かに聞いた。

私は反射的に顔を上げた。

嫌い。

その言葉を選べたら、どれだけ楽だっただろう。

嫌いだから無理です。
嫌いだから帰ってください。
嫌いだから二度と会いたくありません。

そう言えたら、きっとこの胸の奥にある痛みも、もっと単純な形になった。

「……嫌いとか、そういう問題じゃないです」

「じゃあ、何の問題?」

「本当に困っているっていう問題」

「困らせたいわけじゃない」

「本気で今困ってます」

「うん」

「うん、じゃなくて」

「でも、俺も本気なんだ」

その瞬間、部屋の空気が少し変わった。

さっきまでの非現実的な王子様感が薄れて、目の前にいるのが、ちゃんと一人の男になる。
昔から知っている太陽で、でも、もう私の知らない時間をたくさん生きてきた大人の男。

彼はふざけていない。
浮かれてもいない。
話題作りでも、気まぐれでもない。

それがわかっているから、私はますます困った。

「……帰ってください」

私は立ち上がった。

「話は聞きました。あなたが十数年ぶりに再会した幼馴染である私との結婚に本気なのもわかりました」

「向日葵!」

「でも、答えは変わりません。無理です」

「理由を教えて」

「言いたくありません」

「俺にできることがあるなら」

「ないです」

「本当に?」

その声が近くなった。

気づいた時には、太陽も立ち上がっていた。
私は一歩下がる。狭い部屋だから、すぐに壁が背中に当たった。

逃げ場、終了。
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