恋から逃げるのには理由(わけ)があって
私は食器を片づけ、残りのおかゆを保存容器に入れた。
前に太陽が私へしてくれたことを、今度は私がしている。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥に甘くて苦いものが落ちた。
静かな時間だった。
外の街は夜へ沈み、窓の向こうで小さな明かりが瞬いている。
広いリビングに、鍋を洗う水音と、太陽の寝息に近い呼吸だけがある。
こんな時間を、私は知っている。
派手なレッドカーペットでも、世界配信のインタビューでもない。
ただの部屋で、ただの夜に、熱を出した夫の額を冷やして、明日の朝のためにおかゆを残す。
幸せは、思っていたより静かな顔をしていた。
だから怖い。
「向日葵」
ソファから声がした。
「寝ててください」
「もう少しだけ、起きてる」
「熱が下がりません」
「向日葵が帰るまで」
胸が、また痛んだ。
「子どもみたいなこと言わないでください」
「子どものころも、向日葵が帰るの嫌だった」
その言葉に、私は食器を拭く手を止めた。
病室。
白いシーツ。
紙袋のプリン。
生きてよ、と泣きながら言った自分。
私は静かに息を吐いた。
「私は帰ります。あなたは寝ます。明日の朝、熱が下がっていなかったら病院。わかりましたか」
「わかった」
「マネージャーさんにも連絡してください」
「した」
「水分を取る」
「取る」
「ゼリーも残りを食べる」
「食べる」
「よし」
私はトレーを片づけ、バッグを持った。
帰らなければ。
これ以上この静けさの中にいたら、私は逃げる理由を忘れてしまう。
前に太陽が私へしてくれたことを、今度は私がしている。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥に甘くて苦いものが落ちた。
静かな時間だった。
外の街は夜へ沈み、窓の向こうで小さな明かりが瞬いている。
広いリビングに、鍋を洗う水音と、太陽の寝息に近い呼吸だけがある。
こんな時間を、私は知っている。
派手なレッドカーペットでも、世界配信のインタビューでもない。
ただの部屋で、ただの夜に、熱を出した夫の額を冷やして、明日の朝のためにおかゆを残す。
幸せは、思っていたより静かな顔をしていた。
だから怖い。
「向日葵」
ソファから声がした。
「寝ててください」
「もう少しだけ、起きてる」
「熱が下がりません」
「向日葵が帰るまで」
胸が、また痛んだ。
「子どもみたいなこと言わないでください」
「子どものころも、向日葵が帰るの嫌だった」
その言葉に、私は食器を拭く手を止めた。
病室。
白いシーツ。
紙袋のプリン。
生きてよ、と泣きながら言った自分。
私は静かに息を吐いた。
「私は帰ります。あなたは寝ます。明日の朝、熱が下がっていなかったら病院。わかりましたか」
「わかった」
「マネージャーさんにも連絡してください」
「した」
「水分を取る」
「取る」
「ゼリーも残りを食べる」
「食べる」
「よし」
私はトレーを片づけ、バッグを持った。
帰らなければ。
これ以上この静けさの中にいたら、私は逃げる理由を忘れてしまう。