恋から逃げるのには理由(わけ)があって

第10話 王子様のエスコート

「鮭かゆも、みかんゼリーも。俺、向日葵に話したことない」

喉が詰まった。

熱で潤んだ目なのに、太陽くんの視線は妙にはっきりしていた。
玄関の白い灯りの下で、彼は額の冷却シートを押さえたまま、私を見ている。

逃げたい。
今すぐ、この高級マンションの廊下を全力疾走したい。
ただしコンシェルジュのいる建物で全力疾走する女がいたら、通報一直線である。

「……話したことがなくても、普通に考えたらそうなります」

私はどうにか声を出した。

「風邪。高熱。食欲なし。そうなったら、おかゆとゼリー。日本の看病界における王道セットです」

「鮭は?」

「たまたま安かったんです」

「向日葵、たまたまって言う時、だいたい目をそらす」

世界的俳優の観察眼、半端ない。役作りの能力を、私に使わないでほしい。

私は靴に足を入れながら、精いっぱい冷たい顔を作った。

「熱があるのに分析しないでください。病人は寝る。私、帰る。以上です」

「向日葵」

「おやすみなさい」

強引に会話を切って、私はドアを開けた。
背中に視線が刺さる。
でも、太陽は引き止めなかった。

「……ありがとう。助かった」

その声だけが、廊下へ出る私を追いかけてきた。

私は振り返らなかった。
振り返ったら、さっきの問いに捕まる気がしたから。
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