恋から逃げるのには理由(わけ)があって
西口へ回ると、黒いキャップに黒縁眼鏡、濃いグレーのジャケットを着た太陽くんが立っていた。
隠している。
隠しているのに、長身と姿勢と空気の透明度で全部ばれている。人間、顔を隠してもオーラは隠せないらしい。

「お疲れ、向日葵」

「お疲れ様です」

「会社、忙しかった?」

「普通です」

「普通?」

「普通の会社の、普通の一般事務です。電話を取って、請求書を確認して、備品の在庫を数えて、会議室の予約がかぶっていないか見て、コピー機に裏切られて、エクセルに祈る仕事です」

「コピー機に裏切られるんだ」

「紙詰まりという名の反乱を起こします」

太陽は笑わず、ちゃんと聞いていた。
世界規模の撮影現場で生きている人が、私のコピー機反乱事件を真剣に聞いている。情報の格差がすごい。国際会議に町内会の議題を持ち込んだ気分である。

「毎日、そういうのをやってるんだ」

「そういうの、って言われると急に地味ですね」

「地味じゃない。誰かがやらないと、会社が回らない」

まっすぐ言われて、私は少し黙った。

「……ただの事務ですよ」

「ただの、じゃないと思う」

やめてほしい。
仕事で疲れた夕方に、そういう肯定を出さないでほしい。
社会人の心は、思っているより乾燥している。そこに真水を注がれると、普通にしみる。
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