恋から逃げるのには理由(わけ)があって
街灯の光が、変装用眼鏡の縁に反射する。顔のほとんどを隠しているのに、横顔だけで映画のポスターが作れそうだった。素材が強い。
「向日葵は、自分のことを普通って言うけど」
「普通です」
「普通に働いて、普通に生活して、誰かが熱を出したら放っておけなくて、おかゆを作る。それを毎日ちゃんとやれるのは、すごいことだと思う」
「……買いかぶりすぎです」
「そうかな」
「そうです。私は自分の生活だけで精いっぱいの、普通の会社員です。世界で戦う俳優さんに褒められるような壮大な人生は送ってません」
「壮大じゃなくても、向日葵が頑張ってるのはわかる」
その瞬間だった。
太陽の手が、私の頭にそっと触れた。
乱暴ではない。
子どもにするみたいに軽く、一度だけぽん、と。
「よく頑張ってる」
声が、やわらかかった。
世界が、止まった。
頭に残った手の重み。
あたたかさ。
低い声。
よく頑張ってる、という言葉。
一度目の人生の夜が、胸の奥からあふれそうになった。
残業で疲れて帰った日。
会社でミスをして泣いた日。
何もかも投げ出したいと言った私の頭を、太陽が同じように撫でた。
『よく頑張ってる、向日葵』
あの声。
あの手。
あの家。
あの人が、いなくなった夜。
息ができない。
私は反射的に一歩下がった。
肩からジャケットがずり落ちそうになる。慌ててつかんだ右手が震えて、私はその右手首を左手でぎゅっとつかんだ。
「やめて」
自分でも驚くくらい、低い声が出た。
太陽の手が空中で止まる。
「向日葵?」
「そういうの、やめてください」
私はジャケットを肩から外し、彼に押し返した。
「上着も、頭を撫でるのも、頑張ってるって言うのも。全部、やめてください」
「ごめん。嫌だった?」
嫌だった。
そう言えたら、どれだけ楽だろう。
でも、違う。
嫌じゃないから怖い。
嬉しかったから、もっと怖い。
「嫌とか、そういう問題じゃありません」
「じゃあ、何の問題?」
「太陽くんには関係ない問題です」
声が強くなる。
止められない。
「私に優しくしないでください。勝手に近くに来ないでください。懐かしそうな目で笑わないでください。私を……私を、好きにさせようとしないで」
最後の言葉だけ、震えた。
言ってしまった。
半分だけ、本音が漏れた。
太陽の目が、はっきりと揺れた。
「好きにさせようとしてるわけじゃない」
「同じです。あなたが普通にしてるだけで、私は困るんです」
「向日葵」
「名前を呼ばないで!」
川沿いの空気が、しんと冷えた。
言った瞬間、胸が痛んだ。
太陽が傷ついたのがわかったからだ。
でも、止まれなかった。
「私は、太陽くんとはそういうふうになりません。なれません。なっちゃいけないんです。だから、これ以上、優しくしないで」
太陽はしばらく黙っていた。
怒らない。
責めない。
ただ、静かに私を見ている。
それがまた、苦しかった。
やがて彼は、押し返されたジャケットを腕にかけた。
距離を一歩、ちゃんと取った。
「わかった。触れない」
その声は穏やかだった。
でも、目だけは穏やかではなかった。
「ごめん。調子に乗って、触れてしまった。もう向日葵が嫌がることはしない」
「……はい」
「でも」
太陽はそこで、少しだけ眉を寄せた。
「向日葵は、俺が嫌いで拒んでるんじゃない気がする」
心臓が、嫌な音を立てた。
「違います」
「何かを怖がってる」
「違います」
「俺に、何か隠してる?」
冷たい風が、頬に当たった。
私は答えられなかった。
答えたら、すべて崩れる気がした。
太陽は、それ以上踏み込まなかった。
ただ、何かの輪郭を見つけた人の目で、私を見ていた。
「向日葵は、自分のことを普通って言うけど」
「普通です」
「普通に働いて、普通に生活して、誰かが熱を出したら放っておけなくて、おかゆを作る。それを毎日ちゃんとやれるのは、すごいことだと思う」
「……買いかぶりすぎです」
「そうかな」
「そうです。私は自分の生活だけで精いっぱいの、普通の会社員です。世界で戦う俳優さんに褒められるような壮大な人生は送ってません」
「壮大じゃなくても、向日葵が頑張ってるのはわかる」
その瞬間だった。
太陽の手が、私の頭にそっと触れた。
乱暴ではない。
子どもにするみたいに軽く、一度だけぽん、と。
「よく頑張ってる」
声が、やわらかかった。
世界が、止まった。
頭に残った手の重み。
あたたかさ。
低い声。
よく頑張ってる、という言葉。
一度目の人生の夜が、胸の奥からあふれそうになった。
残業で疲れて帰った日。
会社でミスをして泣いた日。
何もかも投げ出したいと言った私の頭を、太陽が同じように撫でた。
『よく頑張ってる、向日葵』
あの声。
あの手。
あの家。
あの人が、いなくなった夜。
息ができない。
私は反射的に一歩下がった。
肩からジャケットがずり落ちそうになる。慌ててつかんだ右手が震えて、私はその右手首を左手でぎゅっとつかんだ。
「やめて」
自分でも驚くくらい、低い声が出た。
太陽の手が空中で止まる。
「向日葵?」
「そういうの、やめてください」
私はジャケットを肩から外し、彼に押し返した。
「上着も、頭を撫でるのも、頑張ってるって言うのも。全部、やめてください」
「ごめん。嫌だった?」
嫌だった。
そう言えたら、どれだけ楽だろう。
でも、違う。
嫌じゃないから怖い。
嬉しかったから、もっと怖い。
「嫌とか、そういう問題じゃありません」
「じゃあ、何の問題?」
「太陽くんには関係ない問題です」
声が強くなる。
止められない。
「私に優しくしないでください。勝手に近くに来ないでください。懐かしそうな目で笑わないでください。私を……私を、好きにさせようとしないで」
最後の言葉だけ、震えた。
言ってしまった。
半分だけ、本音が漏れた。
太陽の目が、はっきりと揺れた。
「好きにさせようとしてるわけじゃない」
「同じです。あなたが普通にしてるだけで、私は困るんです」
「向日葵」
「名前を呼ばないで!」
川沿いの空気が、しんと冷えた。
言った瞬間、胸が痛んだ。
太陽が傷ついたのがわかったからだ。
でも、止まれなかった。
「私は、太陽くんとはそういうふうになりません。なれません。なっちゃいけないんです。だから、これ以上、優しくしないで」
太陽はしばらく黙っていた。
怒らない。
責めない。
ただ、静かに私を見ている。
それがまた、苦しかった。
やがて彼は、押し返されたジャケットを腕にかけた。
距離を一歩、ちゃんと取った。
「わかった。触れない」
その声は穏やかだった。
でも、目だけは穏やかではなかった。
「ごめん。調子に乗って、触れてしまった。もう向日葵が嫌がることはしない」
「……はい」
「でも」
太陽はそこで、少しだけ眉を寄せた。
「向日葵は、俺が嫌いで拒んでるんじゃない気がする」
心臓が、嫌な音を立てた。
「違います」
「何かを怖がってる」
「違います」
「俺に、何か隠してる?」
冷たい風が、頬に当たった。
私は答えられなかった。
答えたら、すべて崩れる気がした。
太陽は、それ以上踏み込まなかった。
ただ、何かの輪郭を見つけた人の目で、私を見ていた。