恋から逃げるのには理由(わけ)があって
玄関に王子が入った。

違和感がすごい。

百均の傘立てと、くたびれたスニーカーと、安い芳香剤に囲まれて、白と金の衣装を着た大空太陽が靴を脱いでいる。

太陽は靴をきちんと揃えた。
所作まで美しい。
せめて片方くらい雑に脱いでほしかった。人類としての親近感が欲しい。

「お邪魔します」

「どうぞ。狭いけど」

「落ち着く」

「この部屋に対してそんな評価をしてくれる人、初めてだよ」

太陽は部屋へ入ると、ローテーブルの冷やし中華を見た。

「食事中だった?」

「食べようとしたところだった」

「ごめん」

「いいよ。人生で一番冷やし中華どころじゃない夜だから」

私は冷やし中華の容器を端に寄せ、慌てて洗濯物をまとめた。
下着が混ざっていなかったことを神に感謝した。普段信心深くない人間ほど、こういう時だけ全力で祈る。

太陽は部屋の中央に立ったまま、少し困った顔をしていた。

「座って。そこ」

「うん」

彼が床に腰を下ろす。
王子がラグの上に座った。

絵面が強い。
情報量が多すぎて脳が処理落ちする。

「お茶、麦茶しかないけど」

「麦茶、好き」

「世界的俳優の好きな飲み物が麦茶だと、庶民は安心する」

「向日葵は変わらないね」

その言葉に、手が止まった。

「変わったよ」

「そう?」

「大人になったし、仕事もしてるし、一人暮らしもしてるし、お総菜は半額シールが貼ってあるものを選ぶようになった」

「最後は成長?」

「生活力」

太陽は楽しそうに笑った。

私はグラスに麦茶を注いで差し出した。
彼の指が、私の指先に少しだけ触れた。

それだけで、心臓が跳ねる。

まずい。
求婚されたばかりの女としては正しい反応かもしれないけれど、私はまだ状況に追いついていない。
玄関前でプロポーズされ、三分後には世界的俳優が自室で麦茶を飲んでいる。
人生、展開が急すぎる。編集者がいたら「もう少し段階を踏みましょう」と赤字を入れると思う。

「向日葵」

太陽が、グラスを置いた。

「どうして、すぐ返事してくれたの?」

「え」

「驚いた。断られると思ってた」

「断られると思ってたのに、来たの?」

「うん」

「メンタルが王族」

「怖かったよ」

太陽は静かに言った。

その声に、私は口を閉じた。

「怖かった。向日葵が俺を忘れてたらどうしようとか、迷惑だったらどうしようとか、会わないほうが幸せだったらどうしようとか」

「……太陽くんでも、そういうこと考えるんだ」

「考えるよ。ずっと考えてた」

彼は、自分の右手を見つめた。

「でも、約束したから。王子様になって迎えに行くって」

胸が熱くなった。

「太陽くんは、本当に王子様になったんだね」

「本物じゃない」

「でも、私にはそう見えるよ」

言った瞬間、太陽の表情が変わった。

息を止めたみたいに、彼は私を見た。
それから、ゆっくり笑った。

「それなら、よかった」

その笑顔は、まぶしいのに少し泣きそうで、私は思わず視線を逸らした。

「でも、あの約束、子どものころの話だよ」

「うん」

「私、たぶん勢いで言ったよ。王子様とか、白馬とか、顔がいいとか」

「覚えてる」

「忘れてよ、そこは。顔がいいって言った小学生の私、かなり俗っぽい」

「大事なんだろ?」

「大事だけど!」

太陽は笑った。
その笑い声が部屋に広がって、古いアパートの空気が少し明るくなった気がした。
< 77 / 179 >

この作品をシェア

pagetop