恋から逃げるのには理由(わけ)があって
――私たちの新婚生活は、秘密から始まった。

外では、私はただの会社員。
太陽は、世界を相手にする俳優。

人前で並んで歩くことはできない。駅で待ち合わせもしない。スーパーへ一緒に行く時は、帽子とマスクと時間帯に細心の注意を払う。
それでも、玄関のドアが閉まると、世界は急に小さくなった。

「ただいま、向日葵」

撮影帰りの太陽が、低い声でそう言う。

その声を聞くたびに、私はキッチンから顔を出した。

「おかえり」

「何作ってるの?」

「冷蔵庫の中身と相談した結果、親子丼です」

「相談できるんだ、冷蔵庫」

「主婦は冷蔵庫と会議をします」

「俺も参加していい?」

「では玉ねぎ係を任命します」

太陽は真剣にうなずき、袖をまくった。
その仕草だけで、キッチンの照度が上がる。

普通の白いシャツに、エプロン。
しかもそのエプロンは、私が近所の雑貨屋で買ったベージュの無地である。
王子様の生活感、破壊力が高すぎる。

「何?」

「いえ。エプロンに負けない顔だなと思って」

「エプロン、勝負してた?」

「あなたの顔面はだいたいの布に勝ちます」

太陽は少し笑って、玉ねぎを切り始めた。
手つきは意外なほど慣れていた。細い包丁の音が、一定のリズムで響く。

「料理、ちゃんとできるんだね」

「一人でいる時間が長かったから」

その言葉はさらっと落ちたのに、少しだけ胸に引っかかった。

遠い国で、病気のあとにリハビリをして、役者になるために努力して、誰も知らない部屋で自分のご飯を作っていた太陽。

華やかな経歴の裏にある孤独を想像して、私は思わず彼の横顔を見た。

「向日葵?」

「ううん。玉ねぎ、薄くて上手だなと思って」

「褒められた」

「調子に乗ると次はにんじんを任せます」

「頑張る」

二人でキッチンに立つと、狭い動線で何度も肩が触れた。
そのたびに、私は無駄にフライパンを見つめた。
新婚なのだから触れてもいいはずなのに、まだ少し照れる。
太陽は、そんな私に気づいているのかいないのか、卵を溶きながら穏やかに言った。

「こういうの、ずっとしたかった」

「親子丼作りを?」

「向日葵と、家でご飯を作ること」

湯気が上がる。
出汁の匂いが広がる。

その何でもない台詞が、私の胸の真ん中にまっすぐ落ちた。

「……私も」

小さく言うと、太陽がこちらを見た。

私は照れ隠しに菜箸を持ち上げた。

「卵を入れるタイミングは私の指示に従ってください」

「了解。卵隊長」

「誰が卵隊長だ」

二人で笑った。
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