恋から逃げるのには理由(わけ)があって
私は慌てて近所のスーパーへ走り、鮭の切り身とみかんゼリーとスポーツドリンクを買った。
帰ってくると、太陽はソファでうとうとしていた。
鍋に米と水を入れ、弱火にかける。
鮭を焼いて、骨を取り、細かくほぐす。
白い湯気が立ちのぼるころ、部屋の中は静かになった。
撮影現場の眩しさも、映画の宣伝も、世界的俳優という肩書きも、全部この湯気の向こうで遠くなる。
ここにいるのは、熱を出した夫と、そのおかゆを作る妻だけだった。
できあがった鮭かゆを器によそい、少し冷ましてから運ぶ。
みかんゼリーのふたも開けて、スプーンを添えた。
「食べられるだけでいいよ」
太陽はゆっくり起き上がり、一口食べた。
熱で潤んだ目が、ふっとやわらかくなる。
「おいしい」
「病人の味覚は信用できません」
「信用して。世界一」
「世界的俳優の世界一、重いんですけど」
「本当だから」
弱い声でそんなことを言われたら、怒れない。
私は冷却シートを彼の額に貼り、ゼリーを差し出した。
「はい、みかんゼリー王子」
「その役、次に取れるかな」
「公開規模が小さそう」
太陽は笑った。
笑うと少し咳き込んで、私は慌てて背中をさすった。
「笑わないで。熱が上がる」
「向日葵がいると、風邪まで静かになる」
その夜、私は何度も彼の熱を測った。
スポーツドリンクを飲ませ、薬を確認し、残った鮭かゆを保存容器に入れた。
太陽は眠る前、私の手をゆるく握った。
「向日葵」
「何?」
「結婚してよかった」
「熱で判断力が下がってる?」
「下がってない」
彼は目を閉じたまま、少し笑った。
「帰る場所に、向日葵がいる」
その言葉に、私は何も返せなかった。
ただ、握られた手をそっと握り返した。
派手な幸せではなかった。
秘密だらけで、制限も多くて、誰にも言えないことばかりだった。
それでも、朝になれば彼のためにおかゆを温める。
帰ってきたら、おかえりと言う。
指輪を家の中でだけつけて、二人で同じ鍋をのぞき込み、卵の固さで笑い合う。
そんな小さな毎日が、私にとっては奇跡みたいだった。
私は太陽の寝顔を見つめた。
生きている。
ここにいる。
私の夫として、同じ部屋で眠っている。
それ以上の幸せなんて、きっとどこにもない。
――その時の私はまだ知らなかった。この穏やかな新婚生活の一日一日が、いつか思い出すだけで息ができなくなるほど、まぶしい痛みに変わってしまうことを。
帰ってくると、太陽はソファでうとうとしていた。
鍋に米と水を入れ、弱火にかける。
鮭を焼いて、骨を取り、細かくほぐす。
白い湯気が立ちのぼるころ、部屋の中は静かになった。
撮影現場の眩しさも、映画の宣伝も、世界的俳優という肩書きも、全部この湯気の向こうで遠くなる。
ここにいるのは、熱を出した夫と、そのおかゆを作る妻だけだった。
できあがった鮭かゆを器によそい、少し冷ましてから運ぶ。
みかんゼリーのふたも開けて、スプーンを添えた。
「食べられるだけでいいよ」
太陽はゆっくり起き上がり、一口食べた。
熱で潤んだ目が、ふっとやわらかくなる。
「おいしい」
「病人の味覚は信用できません」
「信用して。世界一」
「世界的俳優の世界一、重いんですけど」
「本当だから」
弱い声でそんなことを言われたら、怒れない。
私は冷却シートを彼の額に貼り、ゼリーを差し出した。
「はい、みかんゼリー王子」
「その役、次に取れるかな」
「公開規模が小さそう」
太陽は笑った。
笑うと少し咳き込んで、私は慌てて背中をさすった。
「笑わないで。熱が上がる」
「向日葵がいると、風邪まで静かになる」
その夜、私は何度も彼の熱を測った。
スポーツドリンクを飲ませ、薬を確認し、残った鮭かゆを保存容器に入れた。
太陽は眠る前、私の手をゆるく握った。
「向日葵」
「何?」
「結婚してよかった」
「熱で判断力が下がってる?」
「下がってない」
彼は目を閉じたまま、少し笑った。
「帰る場所に、向日葵がいる」
その言葉に、私は何も返せなかった。
ただ、握られた手をそっと握り返した。
派手な幸せではなかった。
秘密だらけで、制限も多くて、誰にも言えないことばかりだった。
それでも、朝になれば彼のためにおかゆを温める。
帰ってきたら、おかえりと言う。
指輪を家の中でだけつけて、二人で同じ鍋をのぞき込み、卵の固さで笑い合う。
そんな小さな毎日が、私にとっては奇跡みたいだった。
私は太陽の寝顔を見つめた。
生きている。
ここにいる。
私の夫として、同じ部屋で眠っている。
それ以上の幸せなんて、きっとどこにもない。
――その時の私はまだ知らなかった。この穏やかな新婚生活の一日一日が、いつか思い出すだけで息ができなくなるほど、まぶしい痛みに変わってしまうことを。