恋から逃げるのには理由(わけ)があって
救護室の長椅子に座らされ、消毒液の匂いに包まれた。
駅員さんが絆創膏を持ってきて、何度も「本当に大丈夫ですか」と聞いた。
大丈夫です、と私は答えた。
大丈夫という言葉は、その日から急に安っぽくなった。

「押されましたか?」

駅員さんが、低い声で聞いた。

私はホームの方を見た。
さっき私の後ろにいたはずの人たちは、もう流れの中に紛れている。
誰が押したのか、そもそも本当に押されたのか。
背中には、まだ手のひらの形だけが残っている気がした。

「……わかりません」

口から出たのは、そんな役に立たない言葉だった。

警察を呼ぶかと聞かれた。
病院へ行くかとも聞かれた。
私は、全部に首を振った。

急いでいるので。
少し、転んだだけです。
本当に、何もありません。

自分で言いながら、嘘が下手すぎて笑えなかった。

バッグの中でスマホが震えた。
太陽からのメッセージだった。

『会社に着いたかな?雨上がりだから足元気をつけて』

私は画面を見つめた。
今すぐ「怖かった」と打ちたかった。
でも、指は動かなかった。

太陽が知ったら、絶対に心配する。
きっと撮影を止めても、送り迎えをすると言う。公表の時期だって変えようとするかもしれない。

あの映画は、彼が15年かけてつかんだ初の王子様役の仕事だった。
私のために、それを壊させたくなかった。

無事だった。
なら、事件じゃない。
そう自分に言い聞かせて、私は会社へ向かった。

けれど、会社もまた、いつもの場所ではなくなっていた。
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