恋から逃げるのには理由(わけ)があって
――その日から、会社の空気は少しずつ変わった。

お昼の席は、私が行く前に埋まるようになった。
共有のお菓子は、私の机だけをきれいに飛ばして回っていった。
会議室で二人きりになると、相手がやたらとドアを開けたままにする。
コピー機の横で誰かが笑うと、その笑い声が全部自分に向けられている気がした。

翌朝には、私の机の上に、差出人のない白い封筒が置かれていた。
中身は何もない。
ただ、封筒の表に丸い文字で一言だけ書かれていた。

『早く別れろ』

手のひらが冷たくなった。

誰かの悪質な冗談。
そう思おうとした。
けれど、封筒を握りつぶしてゴミ箱に入れたあとも、背中の奥にあの手のひらの感触が戻ってきた。
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