恋から逃げるのには理由(わけ)があって
数日後には、上司に呼ばれた。

「プライベートなことに口を出すつもりはないんだけど」

その前置きだけで、胃が沈んだ。

「ただ、社内でいろいろ言われているみたいだから。誤解なら、落ち着くまであまり目立つ行動は控えたほうがいいかもしれないね」

目立つ行動。
私はただ、会社に来て、書類を作って、電話を取っているだけなのに。

「誤解です」

「うん。もちろん、そうだと思っているよ」

上司はそう言った。
でも、その目は信じている人の目ではなかった。

私は会釈して席に戻った。
パソコンの画面には、未処理の請求書リストが並んでいる。
数字はいつも通り正確で、セルの中にきちんと収まっている。
なのに私だけが、会社という枠から少しずつはみ出していくようだった。

噂というものは、形がないくせに重い。
肩に乗る。
背中に貼りつく。
あの朝のホームで感じたあの手のひらみたいに、見えない力で、少しずつ私を押してくる。

「違う」と言うたびに、相手は曖昧に笑った。

「そうなんだ」

「ごめんね、変なこと聞いて」

「でも、気をつけたほうがいいよ」

気をつける。
何に。
誰に。

わからないまま、私は一日一日をやり過ごしていた。
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