恋から逃げるのには理由(わけ)があって
「ただいま」

その日、リビングにはすでに太陽がいた。
久しぶりに撮影が早く終わったのか、黒いTシャツに柔らかいパンツという、世界中のファンに見せたら卒倒者が出そうな部屋着姿で、台本を読んでいる。

「おかえり、向日葵」

顔を上げた瞬間、彼の表情が変わった。

しまった、と思った。
太陽はいつも、私の変化に気づくのが早すぎる。
私は笑っているつもりだったけど、どうやら笑えていなかったようだ。

太陽は台本を置き、こちらへ歩いてきた。
近づく足音が静かで、だからこそ逃げられない。

「顔色が悪い」

「朝からちょっと眠かっただけ」

「昼、食べた?」

「食べたよ」

嘘だった。
コンビニのおにぎりを一つ買って、袋を開けるところまではできた。
でも、給湯室の声が頭から離れなくて、結局半分も食べられなかった。

太陽は、私の目をじっと見た。

「向日葵」

その声がやさしいほど、胸が苦しくなる。

「何かあった?」

私は、右手首を左手でつかんだ。

言わなきゃ。
言ったほうがいい。
線路へ落ちたことも、会社で噂が広がっていることも、封筒が机に置かれていたことも、怖いことも、全部。

でも、言葉は喉の奥で固まった。

太陽の仕事。
公開前の映画。
秘密の結婚。
彼の15年分の努力。
私が口を開けば、それらを全部揺らしてしまう気がした。

「……何も」

最後まで言えなかった。

太陽の視線が、私の手首に落ちる。
彼は何も言わなかった。
責めもしない。問い詰めもしない。
ただ、私の沈黙を見ていた。
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