恋から逃げるのには理由(わけ)があって
「体、冷えてる」
しばらくして、太陽は静かに言った。
「何かあたたかいもの作る」
「いいよ。そんなにお腹すいてないし」
「だから作る」
彼は袖をまくり、キッチンに立った。
その背中を見た瞬間、限界だったものが、胸の奥で小さく崩れた。
鍋の中では、しょうがの匂いが立ち上がっていた。
鶏肉と米がやわらかく煮えて、最後に溶き卵が細く流し込まれる。
ふわりと黄色が広がった瞬間、私は息を止めた。
夜の静かな部屋。
窓の外では、また雨が降り始めていた。
コンロの火だけが小さく揺れて、太陽の横顔をあたたかく照らしている。
「一口でいいから」
太陽は器を置き、私を見る。
「食べて。胃に入れたら、少し楽になる」
卵雑炊は、やさしい味がした。
しょうがが少し効いていて、疲れた体にゆっくり染みる。
一口飲み込んだだけで、泣きそうになった。
「……おいしい」
声がかすれた。
太陽はほっとしたように笑った。
その笑顔があまりにあたたかくて、私は器の中だけを見た。
言えない。
こんな顔をする人に、言えない。
ホームに落ちて怖かったと言えば、彼はきっと私より傷つく。
不倫なんて噂が出ていると知れば、自分が隠しているせいだと責める。
だから、私は黙った。
黙ることが、太陽を守ることだと、本気で思っていた。
「向日葵?」
「……大丈夫だから」
太陽は信じたふりをした。
でも、私を見る目はもう、少しも穏やかではなかった。
雨は窓を細く叩き続けている。
私は卵雑炊を飲み込むたびに、何か見えないものが家の中まで入り込んできたことを、ようやく認め始めていた。
しばらくして、太陽は静かに言った。
「何かあたたかいもの作る」
「いいよ。そんなにお腹すいてないし」
「だから作る」
彼は袖をまくり、キッチンに立った。
その背中を見た瞬間、限界だったものが、胸の奥で小さく崩れた。
鍋の中では、しょうがの匂いが立ち上がっていた。
鶏肉と米がやわらかく煮えて、最後に溶き卵が細く流し込まれる。
ふわりと黄色が広がった瞬間、私は息を止めた。
夜の静かな部屋。
窓の外では、また雨が降り始めていた。
コンロの火だけが小さく揺れて、太陽の横顔をあたたかく照らしている。
「一口でいいから」
太陽は器を置き、私を見る。
「食べて。胃に入れたら、少し楽になる」
卵雑炊は、やさしい味がした。
しょうがが少し効いていて、疲れた体にゆっくり染みる。
一口飲み込んだだけで、泣きそうになった。
「……おいしい」
声がかすれた。
太陽はほっとしたように笑った。
その笑顔があまりにあたたかくて、私は器の中だけを見た。
言えない。
こんな顔をする人に、言えない。
ホームに落ちて怖かったと言えば、彼はきっと私より傷つく。
不倫なんて噂が出ていると知れば、自分が隠しているせいだと責める。
だから、私は黙った。
黙ることが、太陽を守ることだと、本気で思っていた。
「向日葵?」
「……大丈夫だから」
太陽は信じたふりをした。
でも、私を見る目はもう、少しも穏やかではなかった。
雨は窓を細く叩き続けている。
私は卵雑炊を飲み込むたびに、何か見えないものが家の中まで入り込んできたことを、ようやく認め始めていた。